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愛の勝利者ヤコブ 33

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『愛の勝利者ヤコブ-神の祝福と約束の成就-』より)

ラバンの奸計(かんけい)

 「わたしがここに参りましたのはいつでしたっけ、確かあれは秋のことでしたね」

 7年過ぎてもなぜか知らん顔をしているラバンに、ヤコブはそれとなく謎をかけた。

 「おおそうじゃった、そうじゃった。早いものじゃのう、もう7年になるわ」

 ラバンはまるまると太った体をゆすって、ことさら大げさに言った。

 「心配するな、忘れておりはせん。ひとつ盛大に祝おう。なにせお前が正式にわたしの息子となるのじゃもの、のう」

 あれ、ラバンは自分を入り婿にしようというのか。そんな約束ではなかったはずだがとヤコブは思ったが、なにラケルさえもらえば……それまでの我慢だと、ヤコブはあえて争わなかった。

 ヤコブがラバンと契約してから星が7たび巡って、ちょうど同じ位置に来た夜のとばりの降りるころ、ラバンは親族ばかりでなくラバンの天幕を訪れてくる近隣のハランの町の人々や仲間の牧者、その族長たちまで大勢の人々を招いて盛大な宴を催した。その一人一人がヤコブに杯を勧めた。ヤコブは酒に弱いのに、律儀にそれを受けたのでたちまち酔いつぶれてしまった。

 やがて花嫁が少し離れた所に座を占めた。目だけ残して顔全体が厚い布でおおわれ、手までが白い手袋に包まれていた。ラケルももう人妻になったので、他人には肌をいっさい見せないというのがここの習わしなのかな、とヤコブは次第にもうろうとかすんでくる意識の中でぼんやりそう思った。

 そのあとのことはほとんど記憶にない。宴が終わったあと前後不覚となったヤコブは親族の者の手で、二人だけのために特別に用意された天幕の中にかつぎ込まれた。そのあと、ヴェールで全身を包んだ花嫁がラバンに手を引かれて、ヤコブが眠っている寝台のかたわらにまで来、そこでラバンが二人への祝福の言葉を残して立ち去った。……そんなことが遠い夢の中の出来事のように意識の片隅にかすかに残っているだけだった。

 翌朝ヤコブは、どこまでも自分を引きずり込もうとする深い重苦しい闇(やみ)と必死に闘っているうち、ふとそのまぶたのあたりが、熱く燃えあがってくるのを感じた。朝だ。窓から陽がさし込んできているのだ、とヤコブは思った。悪酔いで、頭が割れるように痛む。自分は一体何だってこんな所にいるのか……。

 あっそうだ、昨夜は婚礼だった。自分はラケルとついに結ばれたのだ。そう思うと、胸の重苦しさも頭痛も一瞬にしてふっとんだ。

 「ラケル」

 と一声高くそのかたわらに呼びかけた。

 その瞬間……ヤコブは思わず、あっと声をあげた。生涯、これほど驚いたことはない。添い寝をしていたのはラケルではなく、その姉レアだったのだ。そんなばかな、ヤコブは敷布をはねのけてすっくと立ちあがった。レアはその剣幕に殺されでもするのでは、と唇をわなわな震わせながら蚊の鳴くような細い声で言った。

 「父の言いつけで、それに背くわけにはいかなかったものですから」

 「分かっている。あなたに罪はない」

 ヤコブは心の底から吹きあげてくる憤激を辛うじて抑えながら、強いて笑顔をつくり優しく言った。そこから天幕の入口まではレアを傷つけまいと努めてゆっくりと歩み、外に出て天幕を閉めるや否や、脱兎(だっと)のように伯父ラバンの天幕まで走っていった。

 「伯父さんはどこにいるんです。伯父さんは」

 「まあ落ち着け」

 と、ラバンは自分の部屋からきちんと身づくろいをして笑みさえ浮かべながら出てきた。そうしてしどけなく、寝間着のまま半狂乱で立ち尽くしているヤコブの、頭のてっぺんからつま先までを皮肉たっぷりに眺め回した。

 「おっ、伯父さん、わたしはラケルをいただけるという約束で7年間働き続けたのです。それを……」

 「分かっておる。それを承知のうえでしたことじゃ、その説明をしに今そちらに出向こうとしていたところじゃ」

 「説明も何も、わたしはラケルを……」

 「話の腰を途中で折らんでほしい。そういきり立っていたのでは話のしようがないではないか」

 そうしてポンポンと手をたたくと、召使いに晴れ着と、熱く煮立てたやぎの乳を二人分持ってくるように命じた。

 「まあ、そんな所で突っ立っていないで、ともかくわたしの部屋に入りなさい。どこでだれがのぞき見したり、聞き耳を立てていないとも限らぬからな」

 作戦負けであることはあまりにも明白であった。激情に駆られてなりふりかまわず抗議に飛び出して、ヤコブはラバンにみごと出鼻をくじかれてしまったのだ。落ち着かなければならないぞとヤコブは自分に言い聞かせた。

 腹の中はラバンを締め殺してやりたいと思うほど煮えくり返っていたが、逆上して交渉のうまくいったためしはない。我慢をし抜いたほうが勝ち。多くの修羅場を切り抜けてきたヤコブには、それがはっきりと分かっていた。

 「どうじゃな、この服は。お前は好みが難しいから、これでも随分頭をしぼって作らせたのだが」

 「それは、それは。こんなお心遣いまでしていただいて痛みいります」

 これでヤコブの口は完全に封じられてしまった。

 「わたしたちの国ではな、妹を姉より前に嫁がせることはしないのじゃ」

 「それとこれとは話が違うのではありませんか。それならもっと前に、レアをほかに嫁がせれば良かったのではありませんか」

 「そのとおりじゃ、わたしもそう思って精いっぱいの努力をした。しかし、こんなことを父親の口から言うのもなんじゃが、レアは縁遠いかわいそうな娘での。ずんぐりとしていて親のひいき目で見ても器量良しとは言えぬ。それに目も弱いのじゃ。

 もちろんそれでもいいと言う者もおる。しかしそれは財産目当てか、でなければ、うちの家系に入れるには到底しのびぬろくでなしばかりなのじゃ。

 父親としてわたしもふびんでの。それで無理を承知でそなたにもろうてもらおうと思ったのじゃ。だましたのはわたしが悪い。口惜しくば、思う存分わたしをたたいてくれ」

 ラバンはそう言うと、ヤコブに背中を見せて前かがみになった。

 「あなたをたたいてみたところで、どうなるものでもありません。わたしはラケルが欲しいのです」

 「そんなにもラケルにご執心(しゅうしん)か。困ったのう。お前はもうレアと結ばれてしまった。レアに何か落ち度があるというならともかく、今さらレアを離縁するということもできぬし……」

 この古だぬきめとヤコブは思った。自分が策士だけに、ラバンが腹の底で何を要求しようとしているのかすぐに察しがついた。それも自分の口からではなく、ヤコブ自身から言い出させようとしていることも。相手の策に、そうと分かっていながらうまうまと乗せられることほど腹立たしいことはない。しかし、ラケルを得るためにはそれ以外に方法はない。ヤコブは腹を決めた。

 「レアのことは責任をもってお引き受けいたしましょう。それであなたのご心配はなくなったはずです。改めてラケルについてのお約束を実行してくださるようお願いします」

 「………」

 「そのためにもう7年あなたのもとで働きましょう。この条件でどうでしょうか」

 ラバンは会心の笑みを浮かべた。

 「ヤコブよ、お前はもの分かりのよい利口な男じゃ。それではこうしよう。レアの体面もある。形だけで結構じゃから、あと1週間同衾(どうきん)してくれ。そうしてくれたら、ラケルもあなたにあげよう。ラケルのためにあと7年働くと申し出てきたからと言えば、まわりの者も納得するじゃろう。その点はわたしに任せてくれ」

 そう言って、ラバンは大げさにヤコブを抱きかかえ頬(ほお)に口づけをした。

 「二人の娘をお前がもらってくれるのなら、これほど安心なことはない。万々歳じゃ」

 (何が万々歳だ。ラバンが口づけしたのは、この自分でも娘でもない。黄金にだろう。この欲張りの偽善者め)

 そう思いながらも、一度失いかけたラケルを再び取り戻した喜びに、ヤコブもまた心を込めてラバンに口づけを返した。一方は黄金のために、他方はラケルのために。

 ──もし二人の心のうちが透けて見えたとしたら、これほど珍妙な抱擁はまたとなかったに相違ない。

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 次回は、「女のたたかい」をお届けします。