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ダーウィニズムを超えて 2

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
 そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。

統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著

(光言社・刊『ダーウィニズムを超えて科学の統一をめざして』〈2018520日初版発行〉より)

第一章 進化論を超えて
新創造論の提唱

 チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 180982)が『種の起源』(1859年)を発表してから間もなく160年になろうとしている。進化論はその間、キリスト教の創造論を圧倒して、世界中に広がっていった。そして進化論が完全に勝利を収めたかのように見えた。しかし今日、進化論に対して多くの批判が寄せられるようになっている。そして創造か、進化か、という論争が高まってきた。特に、キリスト教国家の代表であるアメリカにおいて、論争が激しくなっている。

 200411月のギャラップ調査によれば、アメリカでは、聖書を文字どおりに解釈する創造論者は3割を超えており、漠然と神の創造を受け入れている人を含めると8割の人が、神による創造を認めているという。それに対して、神の存在を否定して、進化論の立場をとる人たちは1割しかいないという。ところが、その1割の人たちの大部分がインテリ層であり、学者たちの生物学会では進化論は学問として認められるが、創造論は認められず、「学問の世界に信仰を持ち込むな」といって退けられる。また高校や中学の生物学の教師たちの大半は進化論者である。そこで学校現場において、進化論を教えようとする教師たちと、それに反対する父兄たちとの間で激しく論争がなされてきた。かくして、アメリカでは1920年代より、創造か、進化かという、裁判闘争が繰り返されてきた。しかし、進化論者は科学的に進化論は正しいと主張し、創造論者は聖書を根拠にして信仰の立場から創造論を主張するというように、この論争には解決の道が全く見えない。

 創造か、進化か、という問題は共存できる性格のものではない。一方の立場に立てば他方を否定せざるをえないという関係だからである。従来のキリスト教による創造論は科学的事実を無視して独断的に創造を主張するか、聖書を文字どおりに解釈して、それに合わせて科学的事実を解釈しようとするものであった。それに対して、進化論は生物学や考古学の観察の事実を挙げながら論じられたために、科学的な真理のような印象を与えたのであり、一般的に受け入れられやすかったのである。

 今日、進化論には多くの問題点があることが指摘されている。それにもかかわらず、進化論が生き続けるのは、それに代わりうる代案がないからである。進化論に対抗する代案は創造論であるが、今日、キリスト教の立場から提示されている有力な創造論は、根本主義の特殊創造論である。しかし、聖書を文字どおりに解釈しようとする特殊創造論は、一般の人々にとって受け入れ難いものである。

 ここに代案としての新しい創造論が待望されている。それは現代科学の成果を無視する特殊創造論ではなくて、真に科学的な創造論でなければならない。そのような立場から、ここに統一思想に基づいた新創造論を提示しようとするのである。以下、テーマごとに、進化論、キリスト教の創造論、統一思想の新創造論の要点を紹介し、進化論と創造論の論争が、新創造論の立場から収拾しうることを示そうとするのである。

 なおここに取り上げるキリスト教の創造論は、聖書を文字どおりに解釈する根本主義の特殊創造論である。それは特殊創造論がキリスト教の典型的な創造論であるからであり、さらに特殊創造論を取り上げることによって、進化論と創造論の対立点を明確にすることができるからである。

(一)生物に目的はあるか

◯進化論
 生物界は適者生存、弱肉強食の世界である。したがって、生存に適したもの、繁殖力の強いもの、力の強いものが生き残ってきた。したがって、生物は目的をもって存在しているわけではない。

◯創造論
 神はお一人で完全であり、自己充足的な方であって、神には必ずしも人間と万物を創造する必要はなかった。しかるに神は人間を創造されて愛を注がれた。そして神は万物を創造して、「海の魚と空の鳥と地に動くすべての生き物とを治めよ」と祝福された。すなわち、人間は万物の主人として創造されたのである。しかし万物は何のために存在しているのか、存在の目的は明らかではない。

◯新創造論
 神は愛して喜ぶために、人間を神の愛の対象として創造された。万物は人間の愛の対象として、人間の喜びのために創造された。さらに、すべての被造物は個体目的と全体目的という創造目的をもって造られている。個体目的は「自己の生存を維持する」ということであり、全体目的は「ために生きる」ということである。したがって、すべての被造物は生存に適しているのみならず、低次のものはより高次のもののために存在し、究極的には、すべての万物は人間のために存在しているのである。

 ダーウィンによれば、適者生存の原理、すなわち生命力の強いもの、生存に適したものが生き残り、繁殖し、進化したという。そうであるならば、この世界は、生命力と繁殖力の強い昆虫や雑草が支配するような世界になったはずである。しかし、生物を観察してみると、そのような原理だけで生物は存在しているのではないことがわかる。生存に適しているというのは、生物の存在の一つの条件にすぎないのである。

 例えば西瓜(すいか)を考えてみよう。西瓜は夏の暑い時に、水分をたくさん集め、色をつけ、味をつけながら、大きな果実を実らせる。しかし、それは西瓜の生存にとってどんな意味があるのだろうか。西瓜の生存と繁殖のためには、種さえできればよいのである。地に落ちた種は、春を迎えると、雨が降り、気温も上がるから、芽を出して成長していく。したがって果実の中に大量の水分を貯える必要はないし、色や味をつける必要は全くないのである。進化論者は、西瓜が水分を貯え、色をつけ、味をつけるのは、動物に食べられて種をまき散らしてもらうための西瓜の見事な戦術であるというであろう。しかし西瓜が戦術を練るなんてことはありえないことである。西瓜は動物たち、特に人間のために、天然ジュースとして造られていると見るべきである。すなわち、西瓜は生存に適している(個体目的)だけでなく、他のために存在している(全体目的)のである。つまり生物にはそれぞれの創造目的があるのである。

 蝶(ちょう)の世界を見てみよう。蝶の羽の美しさは魅力的であるが、蝶の羽の斑紋の役割に関して、進化論の立場の研究者たちは「天敵を避けるため」と言う。「天敵を避ける」とは、生存に適しているということである。しかし、ファッションショーのように、きらびやかに舞う蝶たちは天敵に襲われやすいのではなかろうか。彼らはまた、きらびやかな蝶の羽は「オスとメスがひき合うため」であると言う。「オスとメスがひき合うため」とは、繁殖に適しているということである。しかし、それだけではない。蝶は、われわれを魅了するために存在しているのである。実際、多くの人たちが蝶に魅せられて、蝶の収集に夢中になっている。

 昆虫の擬態(ぎたい)はどうであろうか。ある昆虫が、植物や他の昆虫に擬態する理由に対して、進化論は自然選択によって解決済みだと主張している。しかし、昆虫が鳥に食べられないように逃げ回っているうちに、微に入り細に入り、かくも見事に変身できるであろうか。まだ本質をつかみ切れていないのではないかと、疑問を抱く昆虫学者も多い。昆虫の擬態に関して次のような記事がある。

 彼らは、だれに見せたくて、こうなったのか。「昆虫の擬態は、モデル、まねる虫、鳥、そして『観察する人間』という四者関係の問題」と池田教授[生物学者池田清彦]。どれほど似ていれば人は驚き、感動するのか。昆虫の擬態の話は、いつの間にか、人間の認識とは何か、というテーマになってくる(*1)。

 ここに「どれほど似ていれば、人は驚き、感動するのか」と言っているように、昆虫の擬態はわれわれを驚かせ、感動させ、喜ばせるように、造られたものであるとみるべきであろう。


*1 読売新聞、1999628日夕刊。

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 次回は、「生物はデザインされたものか~キリンの首」をお届けします。


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