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文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写 7
詩「栄光の王冠」

 アプリで読む光言社書籍シリーズ第3弾、『文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写』を毎週木曜日配信(予定)でお届けしています。なお、この記事に記載されている「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は創芸社出版のものです。

浅川 勇男・著

(光言社・刊『心の書写~文鮮明師自叙伝に学ぶ~』より)

【第二章】私を憎む者までも、ひたむきに愛そう

詩「栄光の王冠」

 人を疑えば、苦しみを覚え
 人を裁けば、耐えがたくなり

 人を信じて愛して尽くしたとき、もし、その人が感謝することもなく、誠意を持って対応しなかったとき、どんな思いが湧いてくるでしょうか? それどころか、約束を破ったばかりでなく、裏切って反逆したとしたら、どうでしょうか?

 「あれほど愛して尽くしたのに、感謝の一言もないなんて」、「信じて固く約束していたのに、あんなに簡単に破るなんて」と怒りと憎しみを抱き、「もう二度とあの人を信じない、愛さない、本当に悪くて嫌な人だ」とその人を裁き、場合によっては、復讐(ふくしゅう)するかもしれません。

 全身全霊で愛したのに、いとも簡単に裏切られる。愛には裏切りが伴う場合があるのです。愛の裏切りと約束の反故(ほご)は、結婚と夫婦関係でも多々あることです。

 ある男性が、女性に、「ぼくと結婚してくれれば、生涯幸せにしてあげるよ」と固く約束したとします。しかし、結婚してから妻をないがしろにして不幸にすれば、愛の約束を破ったことになり、愛の裏切りとも言えます。

 また、ある女性が、「あなたと結婚したら、早く起きて炊事、洗濯、食事、何でもしてあげるわよ」と約束したとします。ところが、三カ月もたたないうちに、冷蔵庫に朝食を入れておいて、朝は熟睡しているとすれば、それも約束反故というべきです。

 最近は、そんな奥さんが増えているようです。被害に遭った(?)ご主人が作った川柳が全国コンクールに入賞したそうです。審査員たちも、同様の被害に遭っていたので共感を呼んだのかもしれません。

 それは次の句です。

 まだ寝てる 帰ってみたら もう寝てる

 こんな時、夫婦の相互に、相手に対する不信感が芽生えるはずです。そして、かわいげのない妻、頼りがいのない夫として裁いてしまうことでしょう。

 文少年も、同じように、愛の裏切りに遭ったとき、人を疑い、裁きたくなり、憎みたくなる思いが湧いてくることを認めています。普通ならば、自分を不幸に陥れた相手こそ苦しみの元凶であると断定するのですが、文少年は違いました。

 人をどんな場合でも疑ってはいけない自分が、約束を破られたからといって、その人を疑ってしまえば、疑う自分自身が「苦しみを覚え」るのだと言うのです。

 また、愛を裏切ってその人を裁いてしまえば、どんな境遇になっても赦し続けなければならない自分が、そうできない自分自身に「耐えがたく」なるというのです。ましてや、人のために生き、愛することによって存在価値を持つ人間である自分が「人を憎めば、もはや私には存在価値がない」と嘆いているのです。

 確かに、存在価値は、ために生きることによって生じます。一本のボールペンですら、紙に字を書いて人のために役立って、価値を持ちます。では、ボールペンを握っている自分自身は、ボールペン以上に人のために生きて、価値ある人生を生きているのでしょうか。

 「自分を裏切った人に腹を立て、その人を不信し、裁き、憎むのは、人間として当然の心であり間違ってはいないはずだ」。そのように、普通は思いたくなるところですが、文少年はそれを超えていくのです。間違っていたのは、人を裁こうとしている自分自身なのだ、と悟るのです。

 間違っていたのか。そうだ私は間違っていた
 だまされても、信じなければ
 裏切られても、赦(ゆる)さなければ
 私を憎む者までも、ひたむきに愛そう

 真の人間は、どんなに愛の裏切りに遭っても、その人の神性を確信して、愛し、信じ、赦し続けていくのである。自分もそうならなければならない。そうしなければ、人類を救うという天命を果たせないではないか。憎まれて憎み返すのではなく、むしろ「ひたむきに愛そう」。

 そして、この葛藤を超克したとき、信じがたい境地に到達することになります。

 普通、笑顔で迎えるのは、自分に好意を寄せている人やお世話になっている人たちです。しかし、それだけでは万民を愛する立場にはなれません。

 世の中には、平気で自分の私利私欲のためにだます人もいれば、だましておいて何の後悔もせず平然としている人もいます。その人たちを、まるで私のために生きている恩人のように笑顔で接するようになろう、というのです。

 涙をふいて、微笑んで迎えるのだ
 だますことしか知らない者を
 裏切っても、悔悟を知らない者を

 この苦悩を超克することがいかに困難なことでしょうか。それゆえ、この「愛の痛み」を超え、真の愛を貫くために、神様に助けを求め、「主のみ手を当ててください」と切願しているのです。自分が幸福になるために神様に祈るのでなく、自分を不幸に陥れる者の幸福のために、神様に力を求めているのです。

 こうした葛藤を見事に超克して、最後に平安な境地に到達します。人間を不信させようとするあらゆる悪しき誘惑に勝ったとき、それが真の勝利なのです。

 裏切った者らを愛したとき
 私は勝利を勝ち取った

 もし、あなたも私のように愛するなら
 あなたに栄光の王冠を授けよう

 普通、勝利とは、憎む相手を武力などで押さえつけることを意味します。戦いに勝つというのは反対する敵を倒すことを意味しています。怨みと憎悪が、血で血を洗う戦いの歴史を起こしてきたのです。しかし、真の勝利とは、憎しみを真の愛で超克したことを意味すると詩(うた)い上げているのです。それが真の愛の王様なので、もし、あなたが、自分の内なる憎しみを愛で超えることができたなら、「あなたに栄光の王冠を授けよう」というのです。

 夫婦、家族、国と世界の戦いを終わらせて、平和と幸福をもたらすのは、憎しみを真の愛で超えることしかないのだ、と言われているのです。

 この詩は、天命を受けた15歳の文鮮明先生が苦悩の末に到達した境地であり、その心の勝利が、その後の苦難の人生を越えて、人類の平和と幸福のために生涯を捧げる原点となっている、愛の香り高い詩なのです。

 ところで、「悪魔の三つの教え」というものを聞いたことがありますか?

 悪魔は、霊的存在で肉眼では見えません。時間と空間を超越して活動しています。堕天使とか悪天使長、サタンとも言われます。人間を不幸にすることに生きがいを感じている厄介な存在です。悪魔の得意技は人間の心にささやきかけることです。しかも、とても知恵深く説得するので、もっともらしく聞こえます。大概の人間は、この悪魔の誘惑に引っ掛かってしまいます。それを信じて実践すれば、間違いなく不幸になってしまいます。こんな奇妙な存在がなぜいるのかを、文鮮明先生が解明されたのです。それが、「統一原理」という真理です。『原理講論』という本に詳細に記されています。不幸の根本原因を知るための必読書といってもよいでしょう。

 さて、悪魔は、人間を不幸にするために、三つのことをささやきかけます。このささやきは結構、説得力があって、しかも現実を見事に言い当てているかのごとくであり、人はこれこそ真理だと納得してしまうことが多いのです。そしてさっそく実践して、不幸に陥っている人が多いのです。この本を読んでいるあなたも、ひょっとするとすでに実践してきたかもしれません。

 第一の教えは、「人は信じるに値しないものである」という教えです。
 つまり、人間は信じても裏切り、裏切っても後悔しない、根っから性悪な根性を持っている。だから、信じても結局は裏切られて、信じたほうが傷つき苦しむだけなのだ。それは、裏切った者が悪いのではなく、信じたほうが愚かなのである。人は信じるに足るほど立派な者ではないのだ。その証拠に、おまえも人を信じてひどい目に遭ってきたではないか。だからもう人を信じるのはやめなさい。そのほうが人生を気楽に生きれるのだぞ……。

 この教えとささやきを聞いて、「ほんとにそうだね、言うとおりだよ。信じた私がばかだったんだね」などと妙に納得しないでください。耳ざわりのいい言葉は、不幸の種となるのです。

 第二の教えは、「人は愛するに値しないものである」という教えです。

 つまり、人間は愛しても、裏切り、裏切っても後悔しない、根っから自己中心の根性の持ち主なのだ。人間が愛しているのは自分だけであり、そのためには他人を平気で犠牲にして、良心の呵(か)責(しゃく)も感じないものである。愛しても愛を感じる感性が鈍くて、逆に愛した者を利用して私利私欲を満たそうとするだろう。だから、愛すれば愛するほど、裏切られて、心身共に傷つくだけだ。愛すればやがて憎しみに変わり、怨みに陥るだろう。だから、愛するのはやめなさい。愛することに意味がないと早く悟りなさい。それが利口な生き方なのだよ。その証拠に、おまえはずいぶん人を愛そうとして、何の報いも受けず、傷ついてきたではないか、愚かなのは、人を愛した自分自身なのだよ、などともっともらしく心に働きかけます。

 この教えも説得力があり、心が奪われてしまいます。その結果、愛を信じられなくなり、虚無と自暴自棄の生活を強いられます。時として、自分で自分の命を絶ってしまう人もいます。それこそ、悪魔の思うつぼなのです。

 第三の教えは、「人間の悪い根性は変わらない」という教えです。

 これは、最も説得力のある教えかもしれません。人間は根っから悪い根性の持ち主で、一生変わらない。変わったように見えても、見せかけだけで、すぐに戻ってしまう。世間体のために表面は善人を装っていても、中身を心のレントゲンで撮れば、自分という悪性腫瘍(しゅよう)しかない、性悪な根性しかないのだ。だから、あなたが一生懸命努力して、その人を変えようとしても、変わらないのだ。最後に、疲れて心身共に消耗するのは、あなた自身である。それは、愚かなことである。その証拠に、妻として夫を良い方向に変えようと努力してきたが、ちっとも良くなっていないではないか。狼(おおかみ)がホワイト犬(携帯電話のCMに登場する白い犬)にはなれないように、獰(ねい)猛(もう)な夫は、優しくて頼もしい夫にはなれないのだ。おまえは、夫として、妻が気立ての良い妻になるように忍耐してきたが、むしろ気の荒い妻になっているではないか。蛾(が)が蝶(ちょう)になれないように、我の強いおまえの妻は蝶にはなれないのだ。早く諦めなさい。

 結局、サタンの教えは総じてこうなります。

 人間は信じて愛しても、全く意味がない。なぜならば、悪い根性が変わらないからである。最も愚かな生き方は、人間を信じて、愛して、善人に変えようと努力することである。

 こう考えると、もし読んでいるあなたが、夫や妻や、子供や、嫁や姑が、尽くしても変わらない、と心の底で思っているとしたら、すでに悪魔の教えに感化されているのです。

 自ら、幸福への道を閉ざしているのです。なぜなら、悪魔の教えの先にあるのは不幸だけだからです。(続く)

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 次回は、第二章の「神様の三つの教え」をお届けします。


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