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43とも倶楽部誕生物語 24
会読で課題解決の道を見いだした維新の志士たち

櫻井 晴信

 今話題のユニークな読書会、「43とも倶楽部」。本シリーズでは、「43とも倶楽部」がどのようにしてつくられてきたのか、その誕生の物語をお届けします。

 やがて会読は、ほとんどの藩校や私塾に取り入れられたばかりでなく、幕府の学校である昌平坂学問所(後の東大)でも取り入れられるようになりました。

 その理由は、階級ではなく「正味の実力」で評価されたことと、自分の非を認め、異論を受け入れる人格の涵養(かんよう)になったからです。

 明治になって西洋から初めて「討論」という形式が輸入されたといわれていますが、すでに江戸時代には「会読」という形で行われていたのです。

 日本が短期間で近代化に成功したのは、非識字率の低さと、異論を積極的に受け入れる会読の影響が大きかったのです

▲吉田松陰(ウィキペディアより)

 幕末、尊王攘夷を唱えた徳川斉昭は、水戸藩の藩校弘道館で会読を取り入れ、藩主と武士が対等に会読を行っていました。
 吉田松陰も松下村塾で会読をし、塾生の個性を引き出していました。福沢諭吉は緒方洪庵の適塾で会読をして実力を身に付けました。

 幕府の力が弱くなり、外圧に抗して日本を守るには、藩の壁を崩して衆知を集めなければなりませんでした。
 維新の志士たちは、会読を通して喫緊の課題を解決する道を見いだしていったのです。(続く)