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【聖和15周年特別企画】
文孝進様の孝情に学ぶ 3

証し 文孝進様の思い出
「真の父母様の解放のために身もだえされた生涯」

 3月17日、文孝進(ムン・ヒョウヂン)様(享年45)の聖和15周年を迎えます。近年、真のお母様は折に触れて、孝進様の孝行息子としての生き方に言及し、孝情の模範とするよう二世・三世を激励されます。そこで、孝進様の孝情がいかなるものであったかを学ぶ一助として、孝進様に近く侍ったかたの証言を紹介します。(一部、編集部が加筆・修正)

 第3回の今回から、音楽を通して孝進様に侍った日本人男性Hさん(36万双)の証し「真の父母様の解放のために身もだえされた生涯」(『トゥデイズ・ワールド ジャパン』2015年9月号掲載)を、5回にわたって掲載します。

マルチメディアによる真の父母様の解放を決意された

ベルベディアで音楽制作に没頭
 文孝進様は1980年代に入ってから、ニューヨークのマンハッタンセンターを拠点に、マルチメディア(文字、画像、映像、音楽など複数の情報を扱うメディア)を通して世界に善なる影響を与えようと決意されました。孝進様は「マルチメディアは人間の精神部分に最も強く影響を及ぼすものであり、その道で成功することが、真の父母様を解放することである」という信念をお持ちでした。

 1980年代後半からギターと作曲を始められ、最初に30曲を3ヶ月で作る条件を立てられ、食口の音楽家等とバンドを結成してファーストアルバム「再生」が作られました。さらに1990年代に入ると、世界中から音楽やアートに携わってきた食口や2世がマンハッタンセンターに集められました。音楽スタジオを3つ、ビデオスタジオを2つ造られ、孝進様はそのメンバーたちと共に、様々なマルチメディアのコンテンツを作っていかれました。

 当時、孝進様は日本のカープ所属のバンドだった「サンライズ・オーシャン」のアルバムをマンハッタンセンターで製作するよう指示され、バンドメンバーだった私は、キーボードプレイヤー・アレンジャーとして渡米することになりました。それが最初の渡米です。1991年のことです。

 私が行った頃は、ニューヨーカーホテルやマンハッタンセンターは、まだ廃墟のような状態のフロアも多く、壁の補修やペンキ塗りなどから出発させていただきました。日本人メンバーは私を入れて4人でした。
 当時、孝進様はマンハッタンセンターの責任者でしたが、1995年に辞任することになりました。同時にマンハッタンセンターでの私の音楽制作は終わり、それを機に日本に戻ったのです。

 孝進様はマルチメディア制作の拠点を失われたわけですが、音楽へのスピリットはいささかも衰えることはありませんでした。2年後の1997年、場所をベルベディア修練所の敷地内に移して、音楽制作を再開されたのです。

 孝進様のレコーディングエンジニアをしていたRさんから突然、日本にいる私に電話がかかってきたのは同年6月のことでした。「孝進様がまた音楽をされるぞ。おまえ、来る気、あるのか?」

 その頃、私は池袋の近くにアパートを借りてアルバイトをしながら生活していたのですが、「そうか、分かった。じゃあ行く」と即答しました。そしてアパートをたたみ、再びアメリカの地を踏んだのです。

 こうしてベルベディアで、孝進様が2008年に聖和されるまで、共に音楽制作に没頭する生活が始まりました。マンハッタンセンターを開拓したのと同じスピリットで音楽を作ろうと、ベルベディアの一角にこもったのです。

▲ベルベディアのスタジオで曲作りをされる孝進様(2000年頃、米国・ニューヨーク)

1万曲プロジェクト
 当初は、ドラマーやレコーディングエンジニア、何人かのサポートメンバーもいて、バンドという形が残っていました。それが2、3年たつうちに次々にメンバーが辞めていき、最後にバンドとして残ったのはキーボードの私とベースのTさん(日本人)の2人でした。

 その時のスケジュールはというと、大体、朝9時にはスタジオに集まり、夕方の5時か6時くらいまではずっとそこにいました。何をするかというと、ひたすら音楽を作る、それだけです。誰が聴くとか、いつ発表するとかいうことは一切関係なく──
 私はメロディーと和音、アレンジ、ドラムからベースから、全てコンピューターで作ることができますので、キーボードに向かって、その作業に没頭しました。

 孝進様は、私たち一人一人も作曲することを望まれ、私たちも個人個人で音楽を作ってゆきました。歌詞まで作ることは期待していらっしゃらなかったので、とにかくメロディーを作ることに集中しました。作ったら、毎週日曜日に孝進様に聴いていただき様々な点で指導して頂きました。

 1997年に私が渡米した頃には、100曲の曲作りが既に始まっていました。ところが100曲を作り終えると孝進様は、「ゼロをもう一つ足してみよう。どうしてやれないことがあろうか、やろう!」とおっしゃるのです。そこから1000曲、そして最終的には1万曲の作曲がスタートしたのです。

 20022003年あたりは1万曲プロジェクトの真っ最中でした。孝進様は私たちがそばにいようがいまいが、ひたすら作曲をされます。私たちがいればいたで、「せーの」で一緒に作るのです。

 どういうふうに作っていくかというと、まず孝進様が私たちに「次の曲は何をやりたい?」とお聞きになります。「ロックバラードはいかがですか?」「キーは何だ?」「Aマイナーでどうでしょう」「OK」という具合です。「ワン、トゥー、スリー、フォー」の掛け声で始まり、孝進様がメロディーを歌う、私たちがそれに合わせる。マシーンからドラムビートが出てきて、それを同時に録音するのです。リハーサルなしの一発録りです。この調子で、一日に100曲作ったこともあります。孝進様はとにかく、1万曲という数にこだわっておられました。

 タイトルは、最初の100曲くらいはありますが、その後はナンバーのみで、歌詞もありません。音楽の素材に近いもので、スケッチレベルです。将来は、それを基にリアレンジして、多くの曲が作られていくことでしょう。
(続く)

真のお父様のみ言
良心心情啓発のための革命宣言
 孝進が出す歌声は、深刻な時は血を絞り出す音のようです。それが和音となっています。破裂しないまま和音となっているのです。だから、相当な水準に到達したと言えます。一万曲を作りました。今やっていることも学んでやったのではありません。自らが創り出したものは、忠臣の心情と父母の心情と神様の心情と王の心情圏を追慕するときに、足りないという悔い改めの宣言であり、自体蕩減の宣言であり、さらには、良心心情啓発のための革命宣言となったというのです。
(2005年3月29日、米国・イーストガーデン)

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 次回は、「み旨を進めるため、生きたまま祭物になられた」をお届けします。