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【B-Life『世界家庭』コーナー】
砂漠と炎熱のイスラムの国から
北アフリカ・スーダン日誌④
日本なら廃車でも、ここでは現役バリバリ

 2015年から2016年まで『トゥデイズ・ワールド ジャパン』と『世界家庭』に掲載された懐かしのエッセー「砂漠と炎熱のイスラムの国から 北アフリカ・スーダン日誌」を、特別にBlessed Lifeでお届けします!

 筆者の山田三穂さんは、6000双のスーダン・日本家庭です。

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 私がお嫁に来た1980年代のスーダンは、世界の最貧国の一つでした。首都圏(ハルツーム、ハルツームノース、オンドルマン)を走る道路でさえ、アスファルトが敷かれてはいても、大きな穴ぼこだらけでした。

 市内を走るバスは中古の大型トラックの箱車を改造したもので、荷台の両端に幅30センチほどの細長い鉄製のベンチのようなものが取り付けられていて、後ろは開いていました。

 つり革はなく、立っている人は天井に張られた鉄の棒につかまらなければなりません。背の低い私のような女性はつかまることができず、ヨロヨロしていると、親切なスーダン人の若者は席を譲ってくれるのです。

 タクシーや自家用車も走っていますが、日本では廃車置き場にもないような車が、ここでは現役バリバリです。

 当時、日本人の姉妹と一緒にタクシーに乗ったときのことです。リアガラスはなく、ビニールが貼ってあり、しかもエンジンが掛からなかったのです。

 すると、運転手が周囲の人に「車を押してくれ」と頼み、ようやくエンジンが掛かって出発となりました。私たちは途中でエンストするのではないかと心配になり、運転手に「大丈夫なんですか?」と尋ねてみると、「問題ないよ〜」と軽く答えるのです。

 無事に到着し、タクシーを降りた途端にエンジン停止。また、周囲の人にタクシーを押してもらって戻って行きました。

 そんなスーダンの交通事情に進展が見えたのは、南部スーダン(2011年7月9日、南スーダンとして独立)で石油が取れるようになった2000年に入ってからでした。

 穴ぼこだらけの道路はきれいに舗装され、地方へ向かう道路もずいぶん整備されました。ナイル川を隔てた3都市をつなぐ橋は、3本から6本に増えました。

 さらに市内バスは、日本や韓国製のマイクロバス(トヨタのハイエースなど)が走るようになりました。皆、中古車で、いすはかなり痛んでいて、破けているものも多くあります。中には床に大きな穴が空いている車もあって、その穴をベニヤ板でふさいでいるのです。その隙間からは下の道路が見えています。それでもトラックよりは座り心地が良くなりました。

▲バスターミナルで。中距離を走るマイクロバス(日本製の中古車)を利用する人々(8月、ハルツームノース)

 時刻表、バス停というものは昔からなく、どこでも手で合図をすれば乗り降りが可能です。

 ただ、スーダンのバスは全て個人経営で、多く集客して利益を出すために補助席を入れて満席になるまで、始発点(ターミナル)を出発しません。ですから、途中誰も下車していなければ、いくら手を挙げても乗せてもらえません。運が悪いと50度の炎天下で1時間も待たされることもしばしばです。

 バスにはコムサリ(車掌)が乗車していて、その人が料金を客から受け取ります。始発から終点まで一路線2スーダン・ポンド(約40円)という一定料金になっています。

 10年前、帰省したとき、JR西日本の福知山線脱線事故のニュースを目にしました。たった5分の遅れを取り戻すためにスピードを出し過ぎてカーブを曲がりきれずに脱線。約100人が亡くなったと聞いたとき、スーダンでは、太陽が西から昇っても起きえない事故だと思いました。

 1時間遅れようが、運休になろうが、「インシャーラ」(全ては神のみ意〈こころ〉)で終わるのですから。

 便利さを追求すると、スーダンはまだまだ先進国に及びません。でも、何事も「インシャーラ」で通じるこの世界の良さは、人生に悩んで自殺ということにはとんと縁がないことでしょうか。

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(この記事は、『世界家庭2015年12月号に掲載されたものです)