シリーズ・「宗教」を読み解く 238
キリスト教と日本⑰
ペトロ・カスイ岐部

ナビゲーター:石丸 志信

 江戸幕府は、1612年の禁教令に続いて、1614年には伴天連(バテレン)追放令を出し、宣教師、日本人司祭らをマカオ、マニラ、シャム(現在のタイ)に追放した。

 有力なキリシタン大名であった高山右近一族も、この時マニラに追放されている。中には、中浦ジュリアンのように、追放の身でありながら、ひそかに日本に潜伏して司牧活動を続けた聖職者もいた。また、これを機に、ローマを目指して出国した神学生が出てくる。

 国東半島(大分県)の浦辺出身のペトロ岐部は、父ロマノ岐部、母マリアのキリシタン家庭に生まれた。
 彼は父の願いもあって、1600年、13歳の時に長崎のセミナリオに入学した。1年ほどして、有馬にセミナリオが再建され、他の神学生たちと共に有馬に移った。

▲国東半島国見町岐部

 入学から6年間の月日をラテン語の習得と霊的修養に励み、1606年には全課程を修了している。
 その後、司祭を補佐する同宿として数年間を過ごしているが、なかなか正式に司祭になる道が開かれなかった。しかし、彼の心には、神様の召命に応え、司祭となって日本のキリシタンに奉仕し、この国にキリスト教の信仰を広げたいという思いが強くなっていた。

 有馬のセミナリオ時代、ラテン語教師の中に、天正遣欧少年使節団に同行してローマまで行き、ポルトガルのリスボンで活版印刷技術を習得して帰国した日本人修道士もいた。直接ローマを見てきた彼の話を聞きながら、ローマに行けば司祭になれるとの考えが芽生えていたのかもしれない。

 キリシタンに対する江戸幕府の態度が明確になった時、ペトロ岐部はまず、マニラに渡り、イエズス会への正式入会と司祭への道を探った。
 それからマカオに移ったが日本人に対する不信感もあり、なかなか道は開かれなかった。そこで彼は、インドのゴアに行き、そこからローマを目指すことになる。

▲ペトロ・カスイ岐部像(大分県国東市国見町岐部)

 宣教師ザビエルがキリスト教を伝えてからおよそ60年。キリシタンは全国に広がり、一世代から二世代、三世代へと信仰の継承がなされていた。
 その中に日本人キリスト教徒の自覚と誇りを持って、本格的な殉教と弾圧が始まろうとする時代に、あえて己が十字架を担って主に従う人生を選ぶ者も出てきている。


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