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愛の勝利者ヤコブ 4

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『愛の勝利者ヤコブ-神の祝福と約束の成就-』より)

イスラエル民族の起こり③

 ヤコブとは聖書の民(とくにユダヤ教徒とキリスト教徒)にとってこれほどまでに重要な存在であり、神からも「神と人とに力を争って勝った」(創3228)という最大の賛辞が贈られている人物である。にもかかわらず、その生涯は謎に満ち、多くの「聖書物語」作者は当惑の色を隠さない。とくに信仰的な諸著者は、万一間違った評価をすればあとに大きく禍根を残すとの配慮から、そうなるのであろう。ヤコブについては全く触れていないものもある(*1)。

 それというのも、ヤコブはその母リベカといわば共謀して、父イサクから兄エサウが受け継ぐ長子継承の祝福をだまし取ったことがその生涯の出発点となっているからである。これは、ヤコブの行為だけを取りあげて人間的な目で善悪を問い、その背後にある神の計画(摂理)がどのようなものであったかに思いを致さなければ、弁護の余地のない卑劣な謀略のように見えるからである。

 この不可解さは、神の摂理を知らなければ理解できない。

 ユダ(ヤコブの四男)の長子エルの嫁タマルは、夫が悪業のために死に、ついで兄の身代わりに二番目の夫となったオナンも神に背いて死に、このままでは血統が絶えてしまうと思い、遊女に仮装してユダと関係を結んで、ペレヅとゼラの双生児(ふたご)を生んだ。そのことをあとでユダが、「タマルが考えてしたことはわたしよりも正しい。こういうことになったのも自分が残されたあと一人の息子シラにタマルを与えなかったためだ」と賞賛するくだり(創世記38章)がある。

 また、イスラエルの王となったダビデが、屋上から体を洗っている美女バテシバを見染めて、自分の部下ウリヤの妻であることを知りながら宮中に呼び寄せて妊娠させてしまい、始末に困ってウリヤを戦いの最前線に出して謀殺する。その所業を、神から遣わされた預言者ナタンから責められ、ダビデは骨のひとつひとつがふるび砕けるほどに苦しんで悔い改め(サムエル記下11章、12123、詩篇51篇)、バテシバとの間にできた子も死んでしまう。

 しかし、その悔い改めのあとは、神はダビデとバテシバとの間にできた第二子ソロモンをこよなく愛された。空前絶後ともいうべき栄華と卓越した知恵とを与えられ、イスラエル王国は繁栄の頂点にまで至ったのである(サムエル記下、列王紀上を参照)。こうした神の摂理の不可解さと同質のものである。

 これら一連の謎を、なるほどと、理性と良心のある人々のだれもがうなずかざるをえないように解きあかした説明としては、『原理講論』の蕩減復帰原理(*2)をおいて他にその例を見いだしえないのである。

 聖書物語はふつう、聖書の記述どおり、神の天地創造からアダムの家庭、ノアの家庭、ついでアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという順序で書かれている。しかし、私はあえてその順序を逆にして、ヤコブから逆にアダムに還っていくという倒叙形式で物語の筆を運んでいこうと思う。そのほうが、聖書の記述の背後にあって文章の上に現れないままになっている深い神のご計画とご心情が、いっそうはっきり分かってくると信ずるからである。


*注:
1)たとえば、三浦綾子『旧約聖書入門』、カッパ・ブックス
2)『原理講論』、光言社、後編

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 次回は、「アブラハムの召命①」をお届けします。