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心情開拓
心霊を育てる生活原則(62)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

【アブラハムの家庭】
サラの信仰

 サラの信仰は、聖書には詳しく書いてありません。

 アブラハムが啓示を受けて、カルデヤのウルから異邦へ旅に出て、異邦の王に自分が殺されて妻を奪われそうな危険性のある地方へ来て、確かに自分が殺されるという状況を見て、夫婦でなく兄妹と言う以外に方法がないとして、こう言うと約束をし、サラがそれに従いました。そして、パロの所に行ったのです。これは相当難しいことなのです。

 人に奪われた、こういう時は、相当に心が揺れやすい場面です。普通の女性なら、どこかへ逃げるでしょう。殺されそうな所にいるので、「私が異邦の王に捕虜にされる必要はない」と、自分の夫に不平を言うような立場なのです。しかし、アブラハムがイサクを献祭する時、イサクが黙っていたように、サラも黙って王に引っ張られていったのです。

 その時のサラの情的立場はどうだったのでしょうか。サラは、今までの自分とアブラハムとの関係における立場から、こういう試練の時どう思っていけばいいかということを知っていたのです。「確かに神の立場で、神の命令で、ハランという異邦へ引っ越してきた。自分の夫が言うのも、神の命令だ」と思ったから、不平がないのです。

 神を抜けば、必ず人間的に衝突します。信仰者は、神を抜けば、神様がおられるというその立場を離れたなら、不平を言うのは当然です。

 サラは、「アブラハムが言うこともヤハウェの英知だ」と思ったに違いありません。なぜかというと、王様に捕まえられたといっても、平安に、ゆったりして心配せずに、自分の命、自分の体を神に任せて、なるがままに従って、平気だったのです。平安だったというのは、神様と共にいたからです。神の命令で行くのだと、摂理だと思わなければ、自分の心はそういう時に、平安を維持することはできません。

 また、夜中に神がパロに対して、絶対手を出すな、出したら殺すぞという啓示を与えているのを見ても、サラは神と共にいたことが分かります。神と共にいたから、神も私のものだから、「手を出すな」と、こう神に言わせたのです。自分は黙っていても、神様に言わせたのです。

 だから、神がパロ王に干渉したのは、強制的ではないのです。条件があったから、結果的にそうなったのです。結果的主管です。だれがそれをなしたかといえば、アブラハムではなく、妻なのです。

 エバ(女性)は、サタンを屈服させて、自分の夫に戻らなくてはならないのです。一番目のエバは、天使長に主管されていき、このエバ(サラ)はサタンの王に捕まえられていったけれども、それは天に主管されていたのです。サタンを屈服するかしないか、それを問題にするのでなく、「天の立場で行くのだ」、「私は天のものだ」という立場にいたから、結局、天も結果的主管をして救われたのです。

 王も、サラは自分に引っ張られても、悠々たるもので、平気な顔をしているので、何かその影響力が強いことを感じたのです。だから啓示を受けたのです。サラも王も、何か感じたはずです。そして、啓示があったあとに悟って、「なぜうそを言ったのか、夫婦なのになぜ兄妹と言ったのか」と、こう言いながら、財産を与えたのは、相当人格的に尊敬し始めたからです。女性の信仰心によって、王を感化したのです。自然屈服させたという結果になったのです。

 そういう面が、今まで私たちが見ることのできなかったサラの内的信仰です。ハムは自分の気のままに、ああだこうだと感じたけれども、この女性は怨讐(おんしゅう)のところに行っても、内的基準が崩れていなかったので、外的にも復帰できたのを、確かに私たちは見ることができます。

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 次回は、「エバの勝利の重要性/象徴献祭と実体献祭」をお届けします。


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