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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(62)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
四、興南解放と釜山伝道

▲金元弼先生

メシヤに侍るということ

 避難の路程の時には、先生との心の距離は全くなくなりました。先生と一緒にいるような生活に変わったからです。朝起きる時から、何事も一緒にするようになったのでした。

 私は一緒に歩きながら、自分の信仰を次のように打ち明けたことがあります。「もし、2000年前に生まれたならば、私はイエス様を飢え死にさせたでしょう」と。メシヤは、食べなくてもひもじさを感じないお方である、と信じていたからです。

 私のような者ばかりがいて、食べる物も飲む物も何も差し上げないならば、どうなりますか。先生も、私たちと同じく、ひもじい時にはひもじさを感じ、暑い時には暑さを、寒い時には寒さを感じるお方であると、はっきり分かったのです。私は先生を通じて、2000年前のイエス様の事情、心情が理解できました。

 同時に、私たちがもう一つ分からなければいけないことは、メシヤの立場から見ると、私たちよりもっともっと敏感だということです。私たちより、何倍もひもじさを感じる方だということです。

 なぜでしょうか。それはちょうど親と子のことを考えてみれば、もっとはっきりします。母と子が二人で住んでいたとしましょう。とても貧しい家庭です。子供は幼いので、母親が稼いで子供に食べさせなければいけません。何とかしてやっと稼いで、牛乳を買いました。ひもじいからといって、親が先に飲むことはできません。まず子供に飲ませます。残した物があれば、その次に母親が飲みます。

 子供がひもじいと言うのと、親がひもじいと言うのとは、同じ言葉ですが、内容は違うのです。子供は自分のひもじさばかり考えて、ひもじいと言います。しかし母親は、子供に食べ物があって、自分にない時は、ひもじいとは言わないのです。母親がひもじいと言う時は、子供のひもじさと自分のひもじさが合わさっていることを忘れてはいけません。

 このことを通じて、はっきりしておきたいことは、子供がひもじい、親がひもじい、その次に国を治める人がひもじい、世界を治める人がひもじいと言う時、「ひもじい」という言葉は同じですが、ひもじさを感じる度合いは、次元が全然違うということです。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙というふうにレベルが変わってくると、喜びも、個人的喜び、家庭的、民族的、世界的、天宙的喜びというふうに違ってくるということです。ですから、国を心配する人を悩ませたならば、それは国家を悩ませたことになります。

 死にかかっている人を救ってあげたというのと、国を治める責任をもっている人が死にかかっているところを助けたのとは、同じように一人の人間ですけれども、その内容は違うのです。

 一人の人を救ってあげると、その家では、「自分の子を救ってくれた」と言って、いろいろな御褒美を与えるでしょう。ところが、ある人を救ってみたら、それが王子様だった場合、王様は「私の子を助けた者は誰だろう」と探し回って、その人を見つけたら、どういう御褒美を与えるでしょうか。「お前は、私の宮殿で一緒に暮らそう」ということになるのです。

 反対に、王子様を殺したら、その人はどういう罰を受けるでしょうか。個人を殺した場合は、個人の罰を受けるでしょう。しかし、王子様を殺してしまったならば、国家的な罰を受けるのです。王子様が死んだ時、王様はどれくらいの痛みを受けるかといえば、国家的な寂しさを感じるのです。

 メシヤは、どういうお方ですか。メシヤを少し喜ばせたら、それは天宙的な喜びを与えたことになるのです。もし反対のことが起こったらどうでしょうか。イスラエル民族は、たった一人のイエス様を殺害したのですけれども、その罰がどんなに大きかったか考えてみてください。

 ですから、メシヤに侍るということは、どれほど注意深くしなければいけないかが理解できます。ところが、神は愛なるがゆえに、罰は二、三代で終わるようにし、いいことは何千代にも及ぶようになさいます。

 リーダーとメンバーのことを考えてみてください。私自身がほかのメンバーに心配を掛けたとしましょう。また、リーダーである皆様を悩ませたとしましょう。心配を掛けたのは同じですが、内容が違います。10人のメンバーを担当した皆様は、10の悩みを担っています。私がリーダー一人を心配させたことは、10の悩みを与えたのと同じです。100人のリーダーならば、100人分の悩みを与えたことになるのです。ですから、自分のアベルに当たるポジションの人に対しては、訴えるな、批判するなと教えたのです。それは、たくさんのメンバーの悩みを抱えている人であるからです。10人のリーダーであるならば、10人の悩みに責任をもっている人なのです。

 全人類の悩みを抱えているメシヤの心を少し痛めたら、大変なことになります。その代わり、少しの慰めを与えるならば、大変な喜びをもって私たちを迎えるでしょう。ですから、メシヤは私たちの感情よりも、はるかに敏感であるということを分かってほしいのです。たまたまメンバーが少し良いことをしたら、先生は大げさに話してあげることがあります。褒められた人は、「私はそんなに良くできなかったのに、先生はとてもよく見てくださいますね」と感ずるのです。

 一人でいる時には大きな悩みであっても、先生のところに行くと、小さく見えるのはなぜでしょうか。それは、私にはとても大きく見えることも、先生があまりにも大きいがゆえに、小さく見えてしまうと考えるのです。皆様にも、そういう経験がありますか。とても心配して、リーダーに何か聞こうとしたら、小さく感じて聞く必要がなかったことが。皆様がどんどん成長していくと、メンバーが皆様に対して、そう感じるようになるのです。

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 次回は、「心を変えない」をお届けします。


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