(『祝福家庭』76号)
【第3祝福】「主管性完成」

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 このシリーズでは季刊誌『祝福家庭』に掲載されている三大祝福完成に関するみ言を紹介します。

【第3祝福】
「万物を愛する」に関するみ言Ⅰ(2)

 愛する心をもって食べ物と向き合うとき、その食べられる食べ物は、「あなたの血と肉になり、力になって神様を愛することのできる元素として私が吸収される、この驚くべき事実に感謝します」と言いながら、早く口に入っていこうとするのです。牛の肉を食べても、「この牛肉は、子牛のときから母親が愛し、主人が愛で育ててここまで来た愛の結実なのだなあ」ということが分からなければなりません。  愛の実を食べて生きるという概念を中心として愛し、神様の本質的愛と一致する立場で食べて感謝する人は、病気にもならないというのが理論的な結論です。


(天一国経典『天聖経』第6篇・第3章・第3節・26)


 自然は、ために生きる愛をもった息子、娘が生まれるとき、その息子、娘に、ために生きることのできる万物として、贈り物として神様が下さった展示品です。一羽の鳥も、一株の草も、愛の息子、娘たちの生活を美化するために造られた装飾品なのです。

 道端に転がっている石ころも、息子、娘が国を治める主人になることを知っていて、その国の装飾品として造ったというのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、造化無双な和合の園をつくり、愛のための世界を見て、それを相続できる夢の王子、希望の王子を造るために創造したというのです。


(同 第6篇・第3章・第4節・3)


 博物館の中の作品がどんなに貴重だとしても、生きている作品にはかないません。神様の作品であるこの地球星(ぼし)の万物博物館を、誰が神様以上に愛したか、自分の国の博物館以上に愛したか、というのです。道端で踏まれる一本のたんぽぽが、博物館にある新羅時代の金の冠と比べることができるでしょうか。

 そのような神様の心情をもって、「本然の神様が慈しむことのできる王の位置で、愛を受けたその位置で、お前を愛することができない自分自身が申し訳ない。恥ずかしい」と言える心をもって慈しむ王がいるとすれば、草もその王に従っていき、永遠不変に共にいたいと思うのです。そのように生きなければならないのが人間です。


(同 第6篇・第3章・第4節・4)