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心情開拓
【ノアの家庭】
心霊を育てる生活原則(58)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

サタンの讒訴とは

 サタンの讒訴(ざんそ)とは、み言(ことば)を中心としない情、み言を離れた自分、み言を離れた心配、み言から離れたうれしさ、み言と関係のない自分の愛着心、結局、血統的堕落性です。今まで長い6000年間、神のみ言を中心とした新しい人、み言を中心に復活した人、み言を中心とした情、愛を中心として救うのは、その人がみ言によっての愛、み言によっての愛着心を復活させようとするからです。それが、今も繰り返されているのです。

 アダム・エバの関係も、愛によって堕落したのです。そして神も、それ以上の愛をもって、また私たちの情を堕落の愛から切って本然の愛に接触させようとするのです。それは、長い復帰摂理において、方法は違うけれども、同じ情的問題を取り扱っていることから分かります。

 ノアの家庭で、恥じるという条件が大きな罪になったということは、結局神と同じ立場でなく、神の事情でない、神と共に情を発露したのではないからです。だからサタン側は、堕落したあとの堕落性と同じ条件になったから、実体基台をつくろうとしたところに、恥ずかしさを中心として誘惑されてしまい、摂理ができなくしてしまったのです。

 ここにおいて、一人だけ出して、7名が一緒になってやればいいのではないかと思われますが、兄弟セムとヤペテもそのハムから聞いて、後ろ向きに歩いていって、裸を見ないで、服をかぶせたとあります。ハムを中心して、3人が一緒になったのです。だれも祈ってみようともしないのです。そういう立場を、神の立場で心配したという兄弟がいなかったのです。

 ハムが兄弟に対して、「お父さんが酒に酔っ払って裸になった」と言ったとき、「120年間神の主管下にいるお父さんだった。それでは神様はどう見られるのか」と考えた兄弟が、一人もいなかったのです。みなハムと同じように考えて、見ると自分たちも困るから、見ずに服をかぶせてしまったのです。しかし、そういう問題は、直接見て、どうするか決めなくてはならないのに、見なかったのです。見てから、どの立場に立たなくてはいけないか、息子たちを情的に分別しようとしたのにです。

 神が40日間分別して、今度は、自分が分別する立場です。裸体を見て、自分が自分を、私は神の立場だということを、自分で情的に条件を立てて、人間自身がサタンを屈服したという立場に立たなくてはいけないのに、見ないで後ろ向きに服をかぶせたということは、摂理を正当に受けなかった立場、3人兄弟がその同じ立場に立ってしまったのです。一人の条件で3人が共に崩れてしまい、一人もその場で、ノアに対する誇るべき条件を立てられなかったのです。

 1600年、10代目、あるいは120年間の箱舟を造った信仰基台を成功した家庭で、比較できない一瞬間、ちょっとの間の失敗。信仰した120年、あるいは自分たちが今までお父さんを中心としてきた苦心の路程、迫害を受けながら誠意を尽くしてきたそれと、ちょっとのことで情的発露をしたのと比べてみると、本当に悔しいことです。

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 次回は、「ペテロの内心」をお届けします。


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