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新 堕落性の構造 34

 現代人に不幸を招来する「心のゆがみ」。そんな悩みの尽きないテーマをズバッと解説! 人間堕落の根源からその原因を究明している一冊です。毎週木曜日配信(予定)でお届けします。

阿部 正寿・著

(光言社・刊『こう解ける! 人生問題~新 堕落性の構造』より)

10 遠慮で隠す自己の罪

◉償いの決意と不断の努力で
 相手の立場に立って相手のことを思ってあげるのが「思いやり」だと思いますが、「遠慮」とは、自分中心の立場で相手のことを思うことだと考えます。

 例えば、Aさんと話がしたいのに、忙しそうだからと、やめることも遠慮です。しかし実際に頼んでみれば、時間をとってくれるし、逆に喜んでくれることだって多いのです。この場合は、実際に当たってみるところまで行かずに、自分の考えの中で止まっているだけです。聞いてみて、事実忙しければ、次の機会にでもすればいいことですから、ハッキリして次の目標に向かうことができます。エネルギーのロスを防ぐことができます。神様から見た場合、次のものを与えてあげることができるわけです。

 しかし、そこまで行かないと、神様は与えたくとも与えることもできないのです。それは、神様の願いを無視しているから発展できないのです。神様から離れ無視したことが罪なのですから、このようにして無知のゆえに罪を重ねているのです。まず、そのことを分かって反省しなければなりません。

 それを償うためには、相手に聞かずに勝手に自分で判断していたのですから、絶えず相手の意向を確かめて行動するというルールを通していかなければなりません。したがって、神様の代理の立場で立っている人(信仰的にいえばアベル)に対して常に、意向を確かめ尋ねながら行く努力の継続が必要です。それが、蕩減(とうげん/償い)の道です。それらの努力(償い)の上に、キリストによって生み変えられ、罪が清められていくのです。「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・三)と、イエス・キリストも述べておられます。私たちが単なる性格や民族性として見過ごしている遠慮の中に、かくも重大な意味が含まれていたのです。それを解き明かし、解決の道を示したのが、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生であり、そのすべての体験をまとめたものが「統一原理」のみ言です。

 このような原理で分析してみれば、遠慮も結局は、自分の罪を隠す一つの堕落性にすぎなかったのです。

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 次回は、「神様より怖い夫、やはり女は弱し」をお届けします。


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