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新 堕落性の構造 33

 現代人に不幸を招来する「心のゆがみ」。そんな悩みの尽きないテーマをズバッと解説! 人間堕落の根源からその原因を究明している一冊です。毎週木曜日配信(予定)でお届けします。

阿部 正寿・著

(光言社・刊『こう解ける! 人生問題~新 堕落性の構造』より)

10 遠慮で隠す自己の罪

人間始祖からの罪の結果
 人間だれにでもある遠慮とは、単なる性格からくるものなのでしょうか。実は、これは性格からくる問題ではなく、人間のもつ原罪から生じる、抜き難き堕落性なのです。多くの人は、そのことが分からないために、性格と考えてあきらめています。しかし、聖書の創世記に出てくる、六千年前のアダムとエバの時から生じたものです。エバが蛇から誘惑されて禁断の実を食べ、アダムにも勧め二人で罪を犯して楽園を追放されました。悲しむ神様からそのことを問われた時に、二人とも「誘惑されてやったのです。自分からしたのではない」と言い逃れをしました。

 これは、堕落性の四番目になりました(犯罪行為の転嫁、罪の繁殖)。つまり、言い逃れることによって、自分の犯罪事実を隠そうとするわけです。罪人である人間は例外なく、悪いことは隠したいという本性があります。悪いことを認めることは耐え難いことだと、本心がよく知っているからです。それが証拠に、警察に捕まったどんな凶悪犯人も、動かし難い証拠を突きつけられるまでは、しぶとく犯行を否定します。婦女連続殺人事件の大久保清や小野悦男を見ても明らかです。しかし、それは長続きしません。

 遠慮するという背後には、人と深入りしたくない、つまり知らせたくないものがあるからです。自分のことを語らなければ、人は仲良くなれません。人づきあいの悪い人は、大体自分のことを語りたくない人です。だから、相手も授受できなくて遠くなっていくのです。

 このように遠慮も罪から出たものである以上、単なる自分の努力では解決できません。罪なき人、つまりキリストが来なければ、人類の罪からの解放はないからです。しかし、そのキリストを迎えるための準備は、自分がしなければなりません。

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 次回は、「償いの決意と不断の努力で」をお届けします。


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