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信仰と「哲学」100
希望の哲学(14)
ソクラテスとキルケゴール

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 前回、哲学者の原型、哲学の本質をソクラテスに見てきました。
 価値について、すなわち正義や美、善、幸福について問うことの意味、そしてそれを問うソクラテスの姿勢の重要性も見てきたのです。
 絶望から希望に向かう哲学(知を愛すること)の原点であり基礎であるからです。

 「不知の自覚」は、ソクラテスが知者である証しでした。「不知の自覚」という謙遜と柔和な姿勢こそ、神が最も評価する、すなわち人間が神と関わることができる精神的土台であるからなのです。

 そしてもう一つ、ソクラテスの問いが、不確かで相対的、刹那的欲望に振り回されている人間が、自己の殻を破って普遍的な真の自己を「産み出す方法」(ソクラテスは自らを産婆に例えたことがあります)であるからなのです。
 「不知の自覚」を貫徹しない生き方は、独我的観念から脱却できず、ついには絶望に逢着するのです。

 希望の反対語は絶望です。この意味から、ソクラテスは、全ての人間は絶望の中にあり、さらなる絶望に向かって生きていると考えたといえるでしょう。
 気付いていなくても人間は皆、絶望に向かって確実に進んでいるのです。そのことを気付かせなければなりません。故に哲学は全ての人間にとって必要不可欠といえるのです。

 キルケゴール(18131855年、デンマークの哲学者)は、カール・マルクス(1818~1883年、ドイツの哲学者、経済学者)と同時代の人でした。両者共に出発点は「絶望」です。

 キルケゴールは絶望からの希望への道、すなわち永遠の生命の本体である神に至る道を、主体性を持っていかに生きるべきかを示しました。
 その生き方の基礎が「不知の自覚」による価値ある生き方とは何かを問い続けることだったのです。
 観念の世界で分かったように済ませてしまうことを拒否し、経験的理解を重んじる主体性を持った生き方をする実存を強調しています。

▲キルケゴール(ウィキペディアより)

 そしてキルケゴールの主著『死に至る病』(第二編 絶望は罪である)において、最も繰り返して強調されるのがソクラテスの生き方、真理を求める姿勢なのです。

 「ソクラテスよ、ソクラテスよ、ソクラテスよ! ほんとに、あなたの名はどうしても三度呼ばずにはいられない。もしそれが何かの役に立つなら、十度呼んでも多すぎはしないであろう」(『キルケゴール 死に至る病』中公クラシックス、170ページ)

 マルクスは正反対でした。マルクスは絶望状態をそのまま引き受け、絶望者のままで世界を変えようとしたのです。
 絶望の根源は神であり、神への反抗、さらに神への復讐(ふくしゅう)を果たそうとしました。
 マルクスの思想的原点は、彼が19歳の時に記した「絶望者の祈り」だったのです。