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信仰と「哲学」98
希望の哲学(12)
生きた神様が働くとき

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 人間が神とつながる普遍的な「道」は、自分を無にすること、無になることです。
 すなわち神の前に絶対的対象の立場に立つことであると述べてきました。

 前回、周藤健先生の証しを引用しましたが、今回はもう一人の先生の証しを紹介したいと思います。

 米国・統一神学大学院(UTS)の第2代総長を務めた神明忠昭(しんみょう・ただあき)先生です。
 家庭連合の月刊誌である『世界家庭』(20196月号から20213月号まで)に21回にわたって、神明先生の証し(「ドクター神明の信仰エッセー UTS時代の神体験)が掲載されています。

 人間は皆、神の子です。人間一人一人の個性は皆、神から与えられました。
 誰もが人間らしく生きたい、自分らしさとは何かなど、生きることに関わる根本的問題と向き合おうとするものです。

 「電球」が電源とつながって初めて光り輝き、周りをも照らすことができるように、人間の存在目的が成就するためには、神につながり、「生きた神様が働く」ことなしには、いかなる人もその個性と人間としての価値を発揮することはできないのです。

 証しシリーズの最初のテーマは「自分を無にしたとき、お父様が干渉してくださった」です。
 1977年にUTSを卒業し、他の大学で神学博士号を取得。その直後に文鮮明(ムン・ソンミョン)先生(真のお父様)が個人面談をしてくださり、これからUTSで教鞭(きょうべん)を執るようにと語られたのです。

 ところが、当時のUTSの総長には、神明先生がUTSで教える立場に立つという話が通じませんでした。
 神明先生は傷ついた心のまま、サッカーフィールドの真ん中で神に祈りました。

 その内容は「神様、UTSは決してこの私のものではありません。あなたのものです。ですから、誰か私よりもっと優れた人がいれば、その人をここに呼んで、教えてもらうようにしてください。そしてUTSを立派な神学校にしてください」というものでした。

 それから9年半後の1994年春、神明先生は文鮮明先生からUTSの第2代総長に任命されました。
 その時、文先生は、「UTSは自分のものではないと祈ったその祈りによって自分を無にしたので、総長に任命されたのだ」と語られたといいます。

 神明先生の連載エッセーは、『生きた神様が働くとき』(光言社)という一冊の本になっています。

▲『生きた神様が働くとき』(光言社)

 神明先生は次のように記しています。
 「そのような立場に立つ資格もない私に、天はそれ以前からいつも試練を与えて訓練してくださったと感じます。不当だと思われる扱いを受けたり、さまざまな困難が次から次に与えられたりして、試されたように思います。幸いにも、入教時に知った神様の悲しみの心情をいつも思い浮かべながら、申し訳ない思いを持って、愛と忍耐と自己否定で全ての困難を受容できたと思います。そのようなときに、最も無力な私が、かえって大きな神様の恵みに包まれることを感じ、感謝で涙しました」(『生きた神様が働くとき』4ページ)

 人間が求める愛、自由、平等、そして平和も、全て神(天の父母様)から始まったものです。
 今ここに生きていらっしゃる天の父母様につながることなくして、それらを実現、安着させることはできないのです。