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信仰と「哲学」96
希望の哲学(10)
神を信じることと感じることの違い

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)氏は1885年(明治18年)、東京に生まれました。
 華族の出で、1906年に東京帝国大学に入学し、哲学科社会学を学びましたが中退しています。
 トルストイに傾倒し、1918年に階級闘争のない世界実現を目指す、理想郷としての村落共同体「新しい村」運動を始めています。
 高等学校時代から聖書や仏典などを読み始め、小説家・詩人・画家として活躍して満90歳(1976年)で亡くなっています。

▲武者小路実篤

 武者小路実篤氏の著作『人生論・愛について』(196911月初版、新潮文庫)の中から体験的悟りともいえる内容を紹介してみたいと思います。
 神とつながる普遍的な道が示唆されています。

 僕は先日病気して、1日か2日苦しんだ時、人間が最後に病気に、さんざん苦しんで死んでいくことを考えて、人生に対していつも楽観的な考えをもっている僕も、一寸(ちょっと)人生の最後の老病死を考えると、あまりいい気持ちはしなかったのは事実である。
 しかしその時、僕は不意に自分の足元から半円形で、何か自分を愛してくれるものの存在していることを感じた。
 自分はそのものを「大愛」と名づけ、この大愛が宇宙をつつみ、また我等をもつつんでいるのだという感じがし、大愛に、万事を任せる気になった。大愛に抱かれていることが感じられると、生死は大愛に任せればいいのだと思った。
 死は大愛のもとに帰ることだと思うように自分は感じる。大愛の懐に眠る喜び、大愛に抱かれる喜び、生きる時も、なるべく大愛に背かないように生き、そして死ぬことで大愛に抱かれる、それが人生だと思うようになった。

(略)

 僕は病気で苦しんだおかげで、大愛の存在を感じることができたことを喜んだ。この大愛を本当に感じるのが、本当の宗教ではないかと思うようになった。それは理屈ではなく、感じだ。

 すでに紹介した石原慎太郎氏の経験談(参照:第95回)と同じなのは、共に大病を患い「死」と向き合ったということです。そして重要なことは、共に良心や愛に対する目覚めがあったということ、感じるという世界に大きな変化が起こったということです。

 繰り返しになりますが、その経験は自分自身が「無」になること、すなわち神の前に自分が否定されたこと、神に対して絶対的対象となった結果として、自動的に(自分が意図した以上の出来事として、という意味を含む)生じた経験だということです。

 武者小路氏は、神をここでは「大愛」と言い表しています。
 かねてから武者小路氏は神を信じると明言していましたが、「感じた」のは本当に「死んでいくことを考え」たこの時だったのだと思います。
 感じることが大切なのです。