信仰と「哲学」94
希望の哲学(8)
体は心に、そして神につながっている

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 前回に引き続き、池江美由紀さん(水泳の池江璃花子選手のお母さん)の言葉を続けます。

 璃花子さんが全日本選手権で優勝したことについて、「人間の脳はいつも意識して使う顕在能力と無意識で使う潜在能力があります。氷山で言えば見えている一部が顕在能力、その下の海の中に沈んでいる膨大な氷が潜在能力です。ですから私は、いつも子供たちに『あなたならできる。あなたにはまだ使っていない素晴らしい力がある』と暗示の言葉を伝えていました。(略)長年、自分には素晴らしい能力があると言われ続けた瑠璃子だからこそ、ここ一番の場面で潜在能力を引き出すことができたのではないでしょうか。(略)心と体はつながっています。たとえ体は元に戻っていなくても、ほかの選手より圧倒的にスタミナが足りなくても、自分を信じる力が奇跡の泳ぎをさせたのではないかと思います」(「産経」20211124日付)と語っています。

 美由紀さんは、自分を信じるということは自分の潜在能力を信じるということであり、その主体である心を信じるということであると言います。その心を信じることが、心身一体の奇跡の泳ぎを実現させたというのです。

 希望の哲学はもう一歩踏み込みます。
 これまで述べてきたように、神は人間と共にあり、人間に宿っているのです。その「場」は心に他なりません。ですから心を信じるということは、その主体である神を信じることになります。

 信じることによってつながり、つながることによって響き合うのです。さらに響き合うことによって神によって与えられる潜在能力が心身において発揮されるようになるのであり、能力の発揮は自然に善を目指すことになるのです。

 希望の哲学は、既述のように、①足場を固めて②「善」を目指す哲学です。よって、次に善、正しいことを求めることについて考えてみたいと思います。

 人間は皆、善なる個人、家庭、社会、国家、世界の実現を願っています。人間には良心があります。それは善を追求する心、正しいことのために生きようとする心です。それ故、人間が持つ「良心の呵責(かしゃく)」も程度の差はあっても普遍的なのです。

 『原理講論』に以下のような文章があります。

 「古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。このような力は、だれも遮(さえぎ)ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。(略)では、このような良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり独自的にその作用の力を起こすことはできない。すなわち、良心もまた、ある主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用するからこそ、その力が発揮されるのである。我々は、この良心の主体を神と呼ぶのである」(52ページ)

 この説明において明らかなことは、「神は人間のうちに宿っておられる」ということです。

 神が共におられなければ、人間が悪を行おうとするとき、また行ったときに呵責感を抱かせる良心の力が発揮されるはずはないからです。

 呵責感の質と量は、その人がどれほど神と響き合っているかによります。
 ですから、ほとんど良心の呵責感を抱かない人もいるでしょうし、呵責感が大き過ぎて一歩も前に進めなくなるような状態に陥る人もいるでしょう。
 神と強く響き合う可能性を秘めた人とは後者です。