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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(37)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
三、興南監獄での伝道

▲金元弼先生

準備されていた死刑囚

 平壌の刑務所の中には、一人の死刑囚がいました。この人は、第二次世界大戦の時に、韓国人なのですが日本の陸軍士官学校の砲兵科を卒業して、日本の軍人として出征した人です。大けがをして生きて帰ってきた将校(大尉)であり、北の共産国家が成立すると、人民軍に入って中佐となった人です。人民軍に服務していた時に、北の情報を年一回ずつ南に流したという証拠を示されて、死刑の宣告を受けたのです。死刑囚は別に収監されますが、彼は自分で自分の命を絶とうとしたのが知れて、手錠をかけられて死の日を待っていました。その人は、金元徳(キㇺ・ウォンドㇰ)と言います。

 ところが、その青年にひと言の言葉が聞こえました。それは彼の名前でした。意識して見回しても、誰もいません。2回目の声がまた聞こえました。しかし、見つけることができませんでした。3度目の名前を呼ぶ声がして初めて、「はい」と答えました。そうしたら、その声は白い髪の毛のおじいさんの声でしたが、そのおじいさんは彼に、「お前は絶対に死なないだろう。お前は南から上がってくる青年をお迎えする準備をしなさい」とお告げを残して去りました。

 それから幾日かたって、外から自分の番号を呼ぶ声が聞こえました。しかし彼は、幻の中の出来事は全部忘れていて、死刑執行の時が来たのだと思い、恐る恐る立ち上がって出たのです。「これで死ぬ。死刑場へ行く」と思ったのでした。

 ところが事情が変わって、彼の予想もしないことが起こったのです。

 彼は人民軍司令官の厚い信頼を得ていましたが、その司令官がモスクワでの軍事会議に行っている間に、彼の裁判があって死刑の判決が出たのでした。司令官が帰ってみると、自分の一番信頼する部下が死刑囚となっていたのです。能力のある部下でしたから、死刑にだけはしないようにということになりました。そこで最高責任者に、「この人は砲術には貴重な人で、うまく使ったならば、本当に有望な人物である」と言って、直接自分が身分を保証するという条件でやっと死刑を免じてもらい、48カ月の刑を言い渡されるようになりました。

 彼はそういうことを通じて、幻でのおじいさんのお告げを思い出したのです。「死なない」と言われたように、死を免れたのでした。大部分の人は、大きな恵みに会うと、次にやらなければいけないことをおろそかにしがちです。彼も1カ月も過ぎると、先生を迎える準備を全部忘れていたのでした。

 そうしていたある日、再び白い髪の毛のおじいさんが現れて、彼の名、金(キㇺ)を激しく呼びました。「金! 私が言ったことをお前は忘れたのか」と言って叱りました。それからこの人は19日間、体が痛くてどうにもこうにもできないような苦痛を受けました。その人の父親は、自分の愛する子供が死刑を宣告されたことを知ってから、心を痛めて病気になってしまいました。その上、自動車にひかれて死んでしまいました。

 すると今度は、幻の中にお父さんが現れました。「おじいさんが話してくれた青年の所に、私が導いてあげよう。私の後ろからついてきなさい」と言われて、先生のいらっしゃる所に連れていかれました。

 そこは宮殿でしたが、その階段を最初は3段ずつ上がって礼をし、その次は1段ずつ上がって礼をし、やっと輝かしい玉座のある所までたどり着きました。そこで、玉座の青年に大きく三拝敬礼を行いました。あまりにも厳かな所だったので、顔を上げることができないでいたところ、お父さんに言われて顔を上げ、玉座に座っているお方の顔を見ました。

 するとそこは、金のように光がまばゆく光り輝いていました。あまりにもまばゆいので、見つめることができず、顔を下げていました。

 お父さんが「帰りましょう」と言うので、今度はお父さんを従えて階段を下りてきました。そして最後の階段を下りた瞬間に、お父さんはいなくなり、それから自分の意識が戻りました。そして、幻の中の出来事であったと知りました。

 先生は5年の判決を受けて、その青年のいる同じ部屋に入るようになりました。その部屋には、20人近い人が収容されていたのでした。

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 次回は、「裁判で5年の実刑が下る」をお届けします。


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