日本人のこころ 58
『吾妻鏡』(上)

(APTF『真の家庭』279号[2022年1月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

「鎌倉殿の13人」
 2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は1180年の源頼朝の挙兵に始まる源平合戦、鎌倉幕府による武家政権の成立、そして頼朝の後を継いだ将軍頼家を補佐するために御家人ら「13人の合議制」から、1221年の「承久(じょうきゅう)の乱」で鎌倉軍が後鳥羽上皇方を破って全国制覇を達成するまでを描きます。

 主人公は頼朝を押し立てた北条時政の二男で北条得宗(とくそう)家の祖となる義時で、長男の宗時は頼朝軍が敗れた「石橋山の戦い」で戦死しています。鎌倉殿とは将軍、あるいは幕府のことで実質的には東国武士の棟梁、得宗とは北条家の棟梁のことです。

 従来の教科書では、頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192年を鎌倉幕府の成立としていましたが、近年では義経追討に際して頼朝が後白河上皇に、それまでの荘園公領制に加えて、全国に守護・地頭を置くことを認めさせた1185年を武家政権の始まりとする説が有力になっています。守護は各地の軍事や警察を、地頭は荘園や公領の管理、年貢の取り立てなどを担当し、その任命権を頼朝が手にしたのです。

 これは当初、東国に限定されていたのですが、平家滅亡とその所領の没収、さらに承久の乱を経て、武家政権の支配は西国を含む全国に及ぶようになります。その際、武家社会の在り方の基本を定めたのが、北条泰時による「御成敗式目」で、日本最初の武家法です。鎌倉幕府滅亡後も法令として有効性を保ち、山本七平氏は、江戸時代まで続いて日本という国の骨格を形成したと、御成敗式目を高く評価していました。

 鎌倉殿は頼朝から嫡男の頼家(よりいえ)、その弟の実朝(さねとも)に継がれますが、頼朝の直系はわずか3代で途絶えます。その間、実朝を補佐する執権に就いた北条時政が政治の実権を握り、娘婿を将軍にしようと画策します。これに対して北条政子と時政の子の義時は有力御家人と連帯して時政を引退させ、義時が執権に就きます。

 以後、義時は計略をめぐらして有力御家人を次々に滅ぼし、北条氏による支配を拡大していきます。実朝の死後、幕府は朝廷に親王将軍を要望しますが、後鳥羽上皇に拒否されたため、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児を将軍に迎え、後見した政子が将軍の代行をしたことから「尼将軍」と呼ばれるようになります。こうして幕府の実権は、政子と執権の北条氏が掌握するようになったのです。

▲伊豆の国市の蛭ヶ小島にある頼朝と政子の像

 『吾妻鏡』(あずまかがみ)は鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊(むねたか)親王までの将軍の記録で、1180年から1266年までの幕府の事績が描かれています。成立したのは鎌倉時代末期の1300年頃で、幕府中枢の複数の人が編纂したとされる公式の歴史書として、史実を踏まえながらも権力者の北条得宗家に都合のいいように書かれています。全52巻で現代語訳もあり、中公文庫の『マンガ日本の古典 吾妻鏡』全3巻は全容をつかむのに便利です。

武士による、武士のための政権
 高倉天皇の中宮に入った娘の徳子が皇太子を産み、2年後の1180年に安徳天皇として即位すると、外戚となった平清盛は権力の頂点に立ちます。しかし、それによって皇位継承の道を絶たれた後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)は公卿の源頼政に促されて、平氏追討の令旨(りょうじ)を全国の源氏に向けて発しました。それを頼朝に伝えてきたのが、叔父の源行家(ゆきいえ)です。

 頼朝から相談を受けた義父の北条時政は、今こそ武士の世をつくるチャンスだと頼朝の決意を促します。というのは、京から遠く離れ、朝廷のコントロールが及びにくい関東では、武士たちは自分たちを守る後ろ盾、自分たちの領地を守り、土地争いなどの紛争を公正に裁く権力者を必要としていたのです。いわば東国の独立ですが、彼らには失敗に終わった平将門の乱の悪夢がありました。そこで、総大将には天皇家から出た源氏の嫡流を担ぎ出そうと考え、配流されてきた頼朝を保護していたのです。

 加えて伊豆の弱小豪族だった北条氏は、この機に勢力拡大を目論んでいました。関東武士の多くが読み書きが苦手だった時代に、北条時政は頼朝の代理として朝廷と交渉するなど文官としても優れており、京の政治にも通じていたのです。

 一方、頼朝が最も信頼していた側近は、平家に追われる身になっても彼を守り続けた乳母の比企尼(ひきのあま)の比企氏です。比企氏は伊豆の有力武士で、後に鎌倉幕府の重鎮になります。比企尼の娘たちは頼朝の嫡男・頼家の乳母になったので、頼家は政子の実家である北条氏ではなく、比企氏の館で育てられていました。

 以仁王の乱はすぐに発覚し、以仁王と源頼政は平家の軍勢に滅ぼされてしまいます。それに伴い、伊豆の知行国主も平清盛の妻の兄の平時忠が就き、頼朝を擁する北条時政らにも危機が迫ったため、頼朝は挙兵に踏み切ったのです。

 その皮切りは、現地の代官・目代の襲撃で、これには成功しますが、続く「石橋山の合戦」で平家に味方する武士たちに圧倒され、頼朝は真鶴(まなづる)から船で房総に逃れます。そして、下総(しもふさ)、上総(かずさ)の源氏系の武士たちを糾合し、武蔵をめぐって父祖が拠点としていた鎌倉に乗り込みます。これに対して平家は追討軍を差し向けますが、「富士川の戦い」では夜、カモたちが飛び立つのを源氏の襲来と錯覚して逃げ出すなど士気は低く、大敗してしまいます。

 頼朝は一気に京に攻め上ろうとしましたが、それを止めたのが側近の武士たちです。彼らの決起の目的は、自分たちの棟梁をつくることで、京の朝廷の政権を倒すことではないからです。つまり「武士の、武士による、武士のための政権」をつくることが基本的な願いだったのです。そのため、この時代の日本には京と鎌倉に二つの政権があったとする歴史家もいます。

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