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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(31)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
二、いつも弟子に関心をもたれる先生

▲金元弼先生

先生の関心はいつも弟子に

 先生は説教で、たくさんのみ言を語ってくださいますが、その中で信仰生活のポイントをたくさん暗示されます。また、先生がお一人で外に出たり、山に行ったりするところを、私は今まで見たことがありません。食堂へも、お一人で行かれることはありません。大変苦労した食口がいれば、そういう食口たちを連れて一緒に行かれるのです。あるいは、み旨に活躍した人ばかりではなく、その時にいた人と一緒に行かれるのです。映画にもいつも一緒に行きます。先生は日曜日の説教のほかに、和動会を通じていろいろなことを教えてくださいました。説教の時間以外のみ言によっても、豊かな霊的な充実を保つことができたのです。

 先生は、短いみ言でも、私たち一人一人に適確なみ言を下さいました。それは、先生が私たち一人一人に対して非常に関心をもち、私たちを理解していらっしゃったからでした。先生は、普通はそんなに語られず、私たちがお祈りしたり、話したりするところをじっと眺めていらっしゃいました。ですから、私たちの一つの言葉によって、すべてを推し量れるのです。

 私に間違ったことがあっても、その場ですぐに「間違っている」とはおっしゃいません。一緒に出掛けたり、和動したりする中で、私だけに分かるように、平和なうちに教えてくださいました。普通、私たちは、その人を指して話すので、他の人に全部分かってしまうのです。しかし、先生は、そういうことはなさいません。ほかの誰が聞いても、全然分からないのです。本人だけがよく分かるように教えてくださるのです。それも、「悪い」というような言い方では話されません。それは、「神のみ意(こころ)がこうであった。イエス様の心はこうであった。先駆者の歩みがこうであった」とおっしゃることによって、強く自分で反省するように教えてくださったのです。

 私の例を一つ話してあげましょう。

 夏のことでしたが、先生が小さな部屋で、新しいメンバーに対して一生懸命にみ言を語ってくださいました。そこに私も一緒にいて、み言を受けました。私は、初めは眠くはなかったのですけれど、だんだん眠くなりました。そして、そのお客さんが帰ったあと、いつものとおり先生は私と一緒に丘に登られました。街を眺めながら瞑想しました。それが終わってから、先生に連れられて丘を下る途中で、少し休みました。

 そこで先生は、静かに私に語り始められました。「新しい人がみ言を聞いている時に、お前が眠ったらね、それはその人に非常にすまないのですよ」と語り始められたのです。何かを叱られたのではなく、ただ「それはいけないよ」と言われただけなのに、それを聞いていたら、私も分からないうちに涙が出て止まりませんでした。

 もちろん人によって違いますけれども、先生は常にそのように教えてくださいました。

 先生は、言葉で表されなくても、黙っている中に、たくさんのみ言を私に感じ取らせてくださいました。秋になり、麦が実っている所を歩くと、「お前は、ああいう実った麦を見て、どういう感じがする?」とか、ある時は「お前、何か聞きたいことはないのか」と私に聞かれます。時には、「私と永遠に、神様のみ旨のために働くの?」と聞かれたこともあります。

 このように先生は、個人個人に決心をさせたり、私の考えも及ばないことを考えさせたりするために、いろいろなヒントを与えて、覚えていてくださいました。そういうことができたのは、私のために祈っていてくださり、私が今まで言ったことを全部聞いて覚えていてくださり、その次に、私が毎月行ったり来たりしているときに、どのように導いてあげようかと常に関心をもって眺めていらっしゃったからでした。いかにしたら神の心情が分かり、神のみ旨を理解させることができるだろうかという、変わらない深い心をもっていらっしゃるから、そういうことができたのです。

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 次回は、「48年222日、拘束される/80通の投書」をお届けします。


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