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『祝福家庭』77号(2015年 夏季号)
誌上説教
天の父母様が働かれる清い器

周藤健(43双)

説教の途中で逃げ出してしまった

 私が日曜日の礼拝を担当していた頃のことです。当時、私は「このような話をすれば参加者は感動するだろう」と思い、十分に準備して説教に臨んでいました。

 ところがその礼拝において、話せば話すほど苦しくなってきたのです。大きな声を出しても冗談を混ぜても、何の反応もありません。
 いたたまれず、私は途中で説教をやめてしまい、まともに挨拶もせずにそのまま礼拝堂を抜け出したのです。

 それから聖地に行きました。そして、「きょうはどうして食口(シック)たちを復興させることができなかったのでしょうか?」と、天の父母様(神様)に尋ね求めました。
 必死で祈る私に、一つのみ言が与えられたのです。

 「カインがカインだけのときは、自分がカインであることを知らなかった。自分とは違うアベルが来て初めて、カインはカインであることを知った」と。

己の醜さに気づいたとき

 それは、「自分が汚れているときには自分が汚れているということが分からず、アベルという清い者が来たときに初めて自分が汚れていることに気がつく」ということでした。

 参加者を感動させようと思って説教に立った私には、自分の栄光のことしかなかったのです。

 清い神は、汚れた私の“我”意識に相対することができず、私という汚いパイプを通じてでは、神様の生命が食口たちに流れることができなかったのです。

 私は聖地で祈りながら、自分自身を振り返りました。そして、私が、自分の栄光だけを求め、「認められたい。賛美されたい。褒められたい」という動機で説教していたことが分かったのです。

 さらに自分の位置を離れるといった堕落性などの問題がたくさんあることにも気がつきました。

 それから一週間、自分自身の醜さとの血みどろの闘いが繰り広げられました。
 しかし、結局、そのような自分から転換できたという実感もないまま、教会に戻るしかありませんでした。

 教会に帰るとまもなく、また次の日曜礼拝の説教を依頼されました。心の中では「こんな私にまた説教をしろと? この前、あんなに悲惨な状況だったのに」という反発する思いと、「前回の失敗を取り戻すチャンスが与えられた」という思いが交錯しました。

 ほかに説教をする人はいないかと尋ねましたが、いないと言われました。もう逃げ道はありませんでした。
 私は何を話すべきか、真剣に祈り求めました。しかし、何のアイデアも浮かばなかったのです。

静かに淡々と、ありのままを語る

 やがて翌日の朝を迎えました。
 絶叫するような気持ちで祈りました。
 すると、ふと一つの思いが湧いてきました。
 「何も立派なことを語らなくてもいい。ありのままを語ればいいのではないか」

 説教の時間がやってきました。私は説教壇に立ち、口を切りました。
 「先週は本当に失礼しました。説教を失敗してしまい、私は皆さんの所から逃げました。皆さんと顔を合わせることができなかったからです」

 その後、一週間の自分の心の葛藤を話しました。

 「私は今まで、皆さんが感動する立派な話をしようと思って、一所懸命準備してきました。しかし、立派な話をしようと思えば思うほど、うまく語れなくなりました。結局、それが自分という『我』だったのです。自分の栄光のため、自分が認められたい、自分が賛美されたいという我の塊だということにやっと気がつきました」

 すると、あちらこちらからすすり泣く声が聞こえ始めました。ありのままを話しているのに、みんなが涙を流して聞いています。


 前は声を張り上げて話したのですが、今回はむしろ小さな声で、淡々とありのままを話しただけなのです。

清い器となったとき、神が働く

 礼拝が終わりました。
 ある女性がそばに来て、涙を流しながら「感動しました。ありがとうございました」と声を掛けてきました。その人はいつも私の説教に対して批判的な人でした。

 その後、その説教の内容が印刷され全国に配布されました。この説教に関する多くの(感謝と感動の)手紙が届きました。

 自らの醜さに打ちのめされた私は、「我」に振り回されていた自分の姿をありのまま語るだけでした。
 しかし、そこに神様が働いてくださり、聴く者の耳に、心に、命の息を吹き込んでくださいました。神様が臨んでくださったのです。

 私たちの使命は、いかに私心のない純粋な心で神様のみ言を伝え、神様の生命が通過できる通過体、神様の清い器になれるかということだったのです。

 どんな活動においても、自分を通して神様が働かれるかどうかだったのです。自分が私心のない、清い神様の器になっていれば、清くなったぶんだけ、神様が働いてくださるのです。
 生命は“私”から来るのではなく、清い神の器を通じて、神ご自身が与えてくださるのです。

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