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信仰は火と燃えて 5
一粒の麦として

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「信仰は火と燃えて」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 教会員に「松本ママ」と慕われ、烈火のような信仰を貫いた松本道子さん(1916~2003)。同シリーズは、草創期の名古屋や大阪での開拓伝道の証しをはじめ、命を懸けてみ旨の道を歩まれた松本ママの熱き生きざまがつづられた奮戦記です。

松本 道子・著

(光言社・刊『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)

一粒の麦として
 横浜、大阪、京都、広島、仙台と、みんなそれぞれの任地が決められ、私は名古屋へ行くことになりました。たった一人で伝道費を稼ぎ、講義をし、40日間で最低3人の人を伝道して、教会の基盤をつくるのです。そんなことが果たして私にできるだろうか。私はとても心配で、西川先生に「本当にできるでしょうか。万一できない場合はどうしましょう」と聞いてみたのです。すると先生は、「信仰と努力さえあれば絶対できます。あなたの運命を決する開拓ですから、真剣にやってください」と励ましてくださいました。

 聖書に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」とありますが、まさに私は、名古屋のためにすべてをささげようと決意して、この開拓伝道に出発したのでした。

 イエス様は、弟子を開拓伝道に出す時に、上着も下着も持たないで、着の身着のままで行けと言われましたが、私は西川先生に許していただいて、ブラウス2枚、スカート2枚、下着2枚を持って行くことにしました。そしてスカートにパンフレットを入れるための大きなしっかりしたポケットをつけ、名古屋に向かって出発する準備をしたのです。

 この出発に際し、下の娘が「お母ちゃん、病気になって倒れないでしっかりやってね」と言って5000円をくれました。私はその娘の心がうれしくて、その喜びをより大きなものとするために、5000円のうち3000円を、やはり一人で開拓伝道に行く姉妹にあげたのです。その姉妹は「まあ、これ全部くれるの」と言って喜んでくれました。

 1961720日夜11時ごろ、名古屋に出発する私のために、西川先生は朝から晩までくず屋をしたお金をまとめて片道切符を買い、小遣いとして1000円をもたせてくださいました。そして真心込めてお祈をしてくださり、見送りの兄弟姉妹と一緒に聖歌を歌い、万歳、万歳と言って送ってくださったのです。私は、うれしいやら恥ずかしいやら不思議な気持ちでした。

 汽車がホームをすべり出し、西川先生との距離が遠くなると、先生に愛され、指導されてきた日々が思い出され、感謝の思いが込み上げてくるのでした。けれども、列車が東京をすっかり離れてしまうと、先生のことも東京のことも一切忘れて、それ以上にこれから行く名古屋のことを考えていました。名古屋はどんな所だろう。40日私はできるだろうか。様々な心配と不安が心をよぎり、まんじりともしないで夜汽車に揺られていたのです。

 少しうとうとしたかと思うと、翌日の早朝名古屋に着きました。汽車を降り、トランクを荷物預り所に預けると、まず名古屋で一番高いと思われる名古屋城に上りました。そこから名古屋市内を見下ろすと、焼け跡にぽつりぽつりと家が建ち、名古屋駅は工事中で雑然として、町全体にどんよりと深い霧がかかっていました。その名古屋の町を見下ろしながら、私は天の前に決意のお祈りをしたのです。

 「天のお父様、私は必ずこの名古屋の地で、あなたのために働く人を探します。どんなにサタンが大いなる力をもって迫ってきても、必ず勝ってみせます。どうか天のお父様、名古屋の市民を祝福し、私に力を与えてください。あなたが予定した人に会わせてください」

 祈り終わると、もうその瞬間から心があせるのです。名古屋では自分一人しかいない。自分一人で独立独歩、ただ無形なる神を信じて行かなければならない。だから、もう一刻の猶予(ゆうよ)もならない。そう思うと、寝ることや食べることなどとても考えるどころではなく、早く誰かに会ってみ言(ことば)を伝えたいと思うのでした。

 そこで、急いで城を下りてバスに乗ると、バスガールに聞いて、名古屋で一番にぎやかな町に降ろしてもらったのです。そこは栄町という所で、デパートらしいみすぼらしい建物の前を、たくさんの人々が往来していました。バスから降りて四方八方を見回すと、十字架の掛かった教会が見えましたので、私は迷わずその教会に向かって歩いていきました。

 私は、新しい真理である「統一原理」を、まず私の兄弟姉妹であるクリスチャンに伝えなければならないという心情から、クリスチャンを最初に伝道することに決めていたのです。

 教会のドアをたたくと牧師夫人が出てきたので、「私は東京から来た伝道師ですが、今晩一晩ここに泊めていただけないでしょうか」と聞いてみました。夜、牧師が帰ってきたら、いろいろ話をしようと思ったのです。ところが日本キリスト教団でない人は泊めるわけにはいかないと言うではありませんか。そこで私は「日本キリスト教団でなくても、同じ神を信じキリストを信じている兄弟じゃありませんか。庭の隅でも結構ですから、今晩だけでも泊めてください。もう一度夕方に参りますからお願いします」と言って、この教会に、栄えと祝福を与えてください、とお祈りして出てきました。

 その教会を出ると、すぐ次の教会を探して電車に乗りました。するとちょうど仏教の尼さんが乗っていたのです。人に話しかけることは大変勇気がいるものですが、早くみ言を伝えなければというはやる心に押し出されて、旅の恥はかき捨てと、思い切ってその尼さんのそばに歩いていきました。そして、私は神様の娘として、神様の大任務を負ってきたんだという気持ちで、

 「もしもし尼さん」とやさしく声をかけてみたのです。

 「私はキリスト教の伝道師ですが、仏教もキリストも、宗教のあり方は違っても目的は同じだと思います。あなたがなぜ尼さんになったのか、そういう証(あかし)を聞かせていただけませんか」

 私がせっぱ詰まって熱心に話したので、それに圧倒されたのかどうか分かりませんが、2人で電車を降り、喫茶店に行くことになりました。私はお茶やケーキをすすめながら、彼女の話を聞きました。

 私は特に西川先生から、「相手の話を最後までよく聞いてからあなたの話をしなさい。相手の話を途中で折っちゃいけませんよ」とよくよく注意されていましたので、分からない話でも忍耐強く聞いたのです。そして今度私が語る番になると、持ち前の早口で、立て板に水を流すように話しました。

 「人間は何もないところで話し合うことはできません。神様の話をするためにも、食べ物が仲保の役割をしてくれます」

 これも西川先生のよく用いられた例えの一つで、私はその言葉のごとく実行したわけですが、ここで早くも800円というお金を遣ってしまいました。

 名古屋に着いた時、私の手もとには3000円があるだけでした。ですから私は、これがなくなる前に何とか誰かを伝道しなければと思い、朝と昼は水を飲んで夜だけ次の日の活力をつくるために食事をすることにしました。駅の近くにある大衆食堂で、みそ汁付で50円のどんぶり御飯を夜だけ食べて40日間やってみようと決意したのです。

 そうして一日中歩いて、夜の8時ごろ、その食堂でどんぶり御飯を一杯食べてから、最初に行った栄町の教会に行ってみました。もし追い出されたら駅の中で寝ようと思っていたのですが、私の寝る部屋を準備して、蚊帳(かや)をつくって待っていてくれました。けれども牧師は会ってくれず、「今晩だけです。もう来ないでください。統一教会はよく知っています。これ以上話す必要はありません」とピシャッと言われてしまったのです。

 私は「はい、分かりました」と言って、泊めてくれた温情に感謝して、「どうぞこの教会が栄え、神様のみ旨にかなった教会であることができますように。そして早くこの教会が『統一原理』を受け入れてくれますように。どうぞ天の父よ祝福してください」と、祈ってやすみました。

 翌朝早く、感謝の祈りをしてその教会を出ました。この日はまず黒板とチョークを買いました。きのうの尼さんと、朝の九時に公園で会う約束でしたから、それを持って急いで公園に行くと、彼女もちゃんと来ていました。そこでさっそく、芝生の上に座り、創造原理の講義を始めたのです。

 ところが、私にはまだ、赤ちゃんにおっぱいをやるようなやさしい話し方は分かりません。彼女は理解しようと努めながらも、居眠りを始めるのです。それでも私は、汗をだくだく流しながら真剣に語りました。

 あす再会することを約束して彼女と別れたのが午後3時、まだ2日目なのに何日も過ぎたような気がして、心はあせるばかりです。それからまたバスに乗り、お寺でも、天理教の教会でもどこへでも行って、質問したり話をしたりしました。

 けれども、どこへ行っても、私の話を真剣に聴こうとする人には会えませんでした。どんなに立派な話をしても、感心はしてくれても、それ以上聞こうとしないのです。まっ黒な顔に変なブラウス、変なスカートをはいたすごいおばさんのスタイルを見ただけで、「あなたの話を聞きましょう」とは言わないのです。

 そうして2日目の夜は、駅のガードの下で、ボール箱を敷き、壁に背中を寄せて眠りました。3日目は、蚊にさされながら公園のベンチで寝ました。公園にはあちこちに人が寝ていましたので、私も、黒板を持って、ショルダーバッグを背負って、公園で寝ることにしたのです。

 34日目は、キリスト教会を探して歩きましたが、どこへ行っても「聞きたくありません。出ていってください」と追い出されました。ある教会では、「あなたは立派なことを言っていますが、それはサタンです」と言って私を押し出し、ドアをピシャリと閉めてしまいました。

 一日中あちこち歩き回り、夜は公園のベンチで寝る生活が4日間続きました。もう体はくたくたに疲れ、5日目の夜には全く疲労困憊(こんぱい)していました。けれども心はあせるのです。あと35日しかない、どうしようと。

 私は毎夜、公園の中で、「天のお父様、どうか明日は、名古屋で立つべく予定した人に会わせてください」と必死で祈りました。今の私にとって話し相手、訴える相手は神様しかありません。ですから、人から見たら気違いではないかと思うほどに祈るのです。歩きながら祈る、起きても祈る、座っても祈る、祈りはもう欠かすことができないのです。どんな時にも「天のお父様」と呼びながら祈りつつ歩み、きょうも何の実績もないまま、5日目が終わろうとしていました。

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 次回は、「父よ、彼らを赦(ゆる)したまえ」をお届けします。


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