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預言 29
赤の広場

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金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

29 赤の広場

 3日間、まんじりともせず過ごして迎えた朝早く、通りに出た智敏(ジミン)は、路地裏の貧民街にある汚いゴミ箱の前で足を止めた。

 彼は立ったまま、この数日間考え続けていたことを振り返り、結論をつぶやいた。

 「智絢(ジヒョン)、許してくれ」

 ゴルバチョフに銃口を向ければ、その瞬間、すべてが終わる。

 自分はその場で死ぬか、逮捕されるだろう。アメリカで新しい出発をしようとしているソフィアまでも、強制送還されるに違いない。

 後押ししてくれた文(ムン)総裁が、ずっと前から計画していたはずのモスクワ訪問も水の泡になってしまう。何よりも、文総裁が暗殺の黒幕と見なされ、想像もできないほどの苦境に陥ることは目に見えていた。

 ドリロフやセルゲイといった、親しかった者たちも処刑され、さらにはソ連に住むカレイスキー(高麗人)に至るまで、まず間違いなく、激しい迫害にさらされるだろう。

 その反対側には天国があった。

 ソフィアと共に暮らす幸せな日々。

 怒りと復讐(ふくしゅう)にまみれた過去を捨て去り、新しい明日に向かって出発する道が開けていた。

 “ジミー、忘れないで。ポトマックの船着き場よ。あなたが来るまで待っているわ。私のために、どうか急いで

 ソフィアの声が最後に響いた。

 智敏は、コートのポケットの奥にしまい込んで持ち歩いていたマカロフを取り出すと、ゴミ箱に向かって放り投げた。

 ゴトン。

 拳銃がゴミ箱に入るまでのわずかな時間に、智敏は数え切れないほどの弁解をした。

 ソフィアはゴルバチョフを民衆の味方だと言った。ロマノフなどの強硬なソ連の共産主義者とは反対の立場にいるゴルバチョフ。凍土に春の風を吹き込む開放の旗手。

 彼は、民間機を撃墜して智絢を殺した悪なる勢力の親玉とは、正反対の側に立つ人物だった。

 何より、事件があった当時は書記長ではなかった。オシポーヴィチを殺すことができずに行き場を失った恨みの矛先が、彼に向かったにすぎない。

 復讐と憎悪から我に返ってみると、初めからゴルバチョフには何の罪もなかった。

  彼に対する暗殺を放棄した自分にもまた、罪はないのだ。

 「智絢」

 智敏は陰気くさいねずみ色の建物から、西の空へと目を移した。

 悲しく荒(すさ)んだ過去の記憶を隅に追いやり、アメリカにいるソフィアとの新しい人生を宙に描きながら、彼は努めて軽い足取りで、貧民街の汚いゴミ箱を後にした。

 「今までありがとうございました。俺はアメリカに帰ります」

 「表情が明るくなったな。モスクワでの苦労がうかがえるよ」

 毎日のように立ち寄ったカフェや市場、レストランの主人に至るまで、智敏は一人ひとりに別れの挨拶をした。

 彼は宿所にある物を片づけて荷物をまとめ、飛行機のチケットを確認した。そして出国に必要な手続きを完璧に終えると、大学に足を運んだ。

 驚くドリロフ教授を前に、智敏は韓国でするように、心を込め、膝をついてお辞儀した。

 「教授、本当にありがとうございました。何もお話しできなくて申し訳ありません」

 「何も聞かないさ。ただ、私は心から君が気に入っていたよ。それだけは覚えておいてほしい」

 「良い学生ではなかったのに、どうして……」

 「私はロマンを愛している。ジミー、人間はどこまでも合理性を追求しつつも、実際は、非合理の中で生きたいと願う存在なんだ。愛する恋人を追ってこの寒いモスクワの地まで来る学生、これほどのロマンと非合理がどこにある」

 「ハハハ」

 「帰国したら、今度こそ本当に実力をつけるんだ。君が著名な学者になれば、また会える日もあると思わないかね?」

 「天体物理学は、俺が孤独な時、唯一の慰めになってくれました」

 智敏はもう一度、平伏してお辞儀した。

 「セルゲイ」

 多少気まずい関係になってしまった彼も、智敏が帰国することを知ると、名残惜しげに抱きしめてくれた。

 「絶対に連絡しろよ。いつかまた、こっちで一緒にベルーガを飲もう」

 最後に、智敏はナターシャのもとを訪ねた。

 ソフィアに自分のことを伝えてくれた彼女にも、感謝の気持ちを伝えておきたかった。

 しかし、ナターシャの机に座っていたのは別の女性だった。

 「ナターシャ? 彼女ならもう辞めましたよ」

 「それは残念だな。もうすぐここを離れるので挨拶したかったんですが。もし彼女が訪ねてきたら、伝言をお願いします。俺の名前は……」

 「忙しいのよ。ご自分でどうぞ」

 職員は彼女の住所をメモしてくれた。

 「ありがとう」

 不親切が体に染みついているかのような職員の態度だったが、智敏は快活に笑った。

 これがソ連じゃないか。復讐を放棄し、銃を投げ捨ててしまうと、新しい世界が開かれていた。

 時折足を運んでいたゴーリキー公園の生い茂る木の下のベンチに座り、通り行く人々に向かって手を振った。

 イーゼルを立てて絵を描く画家をじっと見守った。ギターで弾き語りをする道端の歌手の隣に座り、足でリズムを取りながら時間を過ごした。

 こうしてロシアの情緒を満喫しながら、智敏は出国までの残りの1日を過ごした。

 「ドイツは正直過ぎるし、イギリスは必要もないのに厳(いか)めしい。フランスは嘘(うそ)まみれ、とでもいえるかな? アメリカはとにかく軽い」

 「いきなり何の話ですか?」

 「それぞれの国の文化だよ。ロシアは力強さの中にも恨みがある。勇敢で堂々としているが、いつも悲哀がつきまとっている、というところだな」

 ベンチに座って本を読んでいた老人の口から脈絡もなく出てきた話に、智敏はうなずいた。

 わずか数日のうちに、重苦しいとばかり思っていたこの国、ロシアに対する好感が少し芽生えていた。それはすべて、ソフィア、彼女が再び現れたからにほかならなかった。

 彼女の存在一つで、智敏の人生は180度変わった。恐ろしいだけだった明日が待ち遠しくなり、慌ただしく過ぎ去るばかりだった時間は、穏やかに流れるようになった。

 いつの間にか、世界が色づいていた。

 “ついに明日だ。ソフィア、もう少しだけ待っててくれ。ポトマック、あの懐かしい船着き場で”

 翌日、整理をすべて終えてリュックサックを背負った智敏は、心も軽やかに、遠く見えるクレムリンを見つめた。

 空港に向かう電車に乗ってようやく、ここを去ること、そして新たに始まる人生に対する実感が湧いてきた。

 “間違っていることなんて、ないよな?”

 突然襲いかかった一抹の不安に、智敏は大きく頭(かぶり)を振った。

 ソフィアは先に行っているし、モスクワですべきことはみな処理したはずだった。しかし一つだけ、文総裁がもうすぐモスクワに来るというのに、会いもせずにこの地を去ることが気になっていた。

 だが、ソフィアと共にイースト・ガーデンを訪問すれば、もっと喜んでもらえるだろう。

 智敏はこれまでのどんな時よりも、のんびりした気持ちでゲート前のベンチに座った。

 智絢の復讐を果たせなかったことが心残りではあったが、今や新しい期待に、ただただ胸が膨らんだ。

 智絢の分まで幸せになろう。

 それは実体のない仇(かたき)に銃を向けることよりも、よっぽど素晴らしい人生の復讐なのかもしれない。

 彼はテレビに目をやりながら、今まで身に降りかかってきた様々な出来事を、頭の中で整理した。

 「ソフィア」

 最後に、彼は数日前のソフィアとの再会を振り返り、ほほ笑みを浮かべた。

 どうせアメリカに一緒に行こうと約束しに来るのなら、もっと早く、満面の笑みを浮かべて走り寄ってきてくれれば良かったのに。

 自分があんなに必死になって捜し回り、さまよっているのをすべて知りながら、隠れて出てこようとしなかったソフィアが、不憫(ふびん)でならなかった。

 「ロシア文学科に飛び込まなかったら、目と鼻の先にいたのに会えなかったかもしれないな。ハハ、パステルナークに感謝しなきゃ」

 心の中まですっきりと整理された智敏は、ゆとりのある視線をあちこちに向けた後、再びテレビに目をやった。

 見慣れた風景、見慣れた人々が登場し、最後に、二度と見たくないと思っていた建物が画面いっぱいに映し出された。

 ルビャンカという名で呼ばれながら、美しいルビャンカの通りを破壊していくKGB本部。

 「ああっ!」

 くすんだ色の建物に続くシーンが目に入った瞬間、智敏は我知らず悲鳴を上げ、画面に釘づけになった。

 速報。KGB、書記長の指示に従わず、赤の広場のデモを武力制圧

 字幕の上では、赤の広場に押し寄せる軍人に包囲され、身もだえしながら何かを大きく叫ぶ群衆の姿がクローズアップされていた。

 その中でも、特に激しく叫んでいる人々の中心に、赤い髪の女、ナターシャがいた。

 間違いない。続いて映し出された群衆の中に……。

 智敏はいつの間にか立ち上がっていた。彼は驚愕(きょうがく)し、テレビの前に駆け寄った。

 ソフィア。

 アメリカに行ったはずのソフィアがどうして。どうしてそこで、そんなふうに叫んでいるのか。

 瞬間、KGB所属の軍人たちの姿が画面に映し出され、ダダダッという銃声が響いた。

 映像が慌ただしく途切れた。

 「ソフィア!」

 智敏はぺたりとその場に座り込んだ。

 見間違いなどでは決してない。アメリカにいるはずのソフィアが、モスクワのテレビのブラウン管の中にいた。

 それも赤の広場で、銃声と共に、抵抗するレジスタンスの人々の真ん中に。

 “ソフィア!”

 智敏はリュックサックをかなぐり捨てて走り出した。

 空港を後にした彼は、通りすがりのタクシーの前に飛び出すと、驚く運転手に「赤の広場! 赤の広場!」とわめき立てた。

 タクシーの中、深くうつむいたまま、髪をかきむしり、獣のようなうなり声を漏らす。

 赤の広場に到着するまで、まるで何十年もかかったかのようだった。

 ドアを蹴飛ばすようにして走り降りた彼は、広場の前に来ると、その残酷な光景を目の当たりにして膝をついた。

 誰のものかも分からない赤黒い血、引き裂かれた旗と垂れ幕。

 めちゃくちゃになった赤の広場に残っていたのは軍人だけで、彼らはデモがあった痕跡を覆い隠すように立ちはだかっていた。

 「ソフィア!」

 軍人の間をかき分けて中に入ろうとしたが、既に誰もいなかった。

 智敏は頭の中が真っ白になったまま、ぼんやりとその光景を見つめていた。夢なのか現実なのか、実感の湧かない時間がただ通りすぎていく。

 赤黒い染みがそこらじゅうに点在する赤の広場で、智敏は膝をついて座り込んだ。

 すべてが偽りだった。ソフィアの約束は偽りであり、目の前のむごたらしい現実も偽りだった。

 幸福にあふれる明日も偽りであり、ほんの少しの間でも美しいと感じたソ連も、偽りだった。

 智敏の長い長い絶叫が響き渡る中、じとじとした雨が降り出した。

 軍人は全員撤収し、犠牲者の家族も方々に散らばっていった。

 激しさを増す雨脚によってその日の痕跡が消え行く間、智敏は膝をついたまま、凍りついたように動かなかった。

 「ここに行ってください」

 暗闇の中でずぶ濡(ぬ)れになった智敏は、タクシーの運転手にナターシャの住所を書いたメモを差し出した。

 市内を抜け、郊外の古いアパートに到着した彼は、タクシーを降りると、きしむ木の階段をとぼとぼ上がっていった。

 ナターシャの部屋の前でしばらく躊躇(ちゅうちょ)していた彼は、やがて震える手でドアをノックした。

 続いて、もう少し強く。

 さらに、ガンガンという音がするほど、強く叩(たた)いた。

 「ナターシャ、開けてくれ! 頼むから返事をしてくれ!」

 予想どおり、中からは何の気配もしなかった。

 智敏がドアノブを回すと、鍵はかかっておらず、ドアが音もなく開いた。

 狭いリビングに小さい部屋が二つ付いた家には、そこかしこに居住者の痕跡が残されていた。

 あらゆる政治・外交関連の記事と、反戦デモに関するスクラップ、民主主義とマルキシズムに関する書籍、度数の高い酒の瓶と強いタバコなどが、きれいに並べられていた。

 めちゃくちゃに散らかった部屋よりも、むしろ違和感があった。歯磨き粉や歯ブラシの一つひとつに至るまで、まっすぐに置かれている。

 それらの物からは、まるで投身自殺を前にきちんとそろえられた靴のように、不幸の匂いが漂っていた。

 「あっ!」

 智敏ははっとして、2足並んだスリッパを見た。

 歯ブラシも2本。食器類も2セットずつ。隣の部屋のドアを開け放った彼は、その場に立ち尽くした。慣れ親しんだソフィアの残り香が漂う。

 そこにあったのは、小さな額に入った壁掛けの白黒写真だった。

 その中で、ソフィアと彼女の両親が仲むつまじく笑っていた。

 ソフィアはここに、ナターシャと一緒に住んでいたのだ。

 もっと早くここに来ていれば。せめて住所を教えてもらったあの日に、ナターシャに挨拶しに来ていれば。

 果てしない後悔に引き裂かれる胸をぐっと押さえ、智敏は机に近づいた。

 机の上に紙が1枚、置かれていた。

 私の体を焼き尽くしてロシアを生かすことができるのなら、そうしよう!
 必ずや、そうしてみせよう!
 ジミー、私のことは忘れて、幸せになってね。

 間違いなくソフィアの筆跡だった。

 何度も繰り返しその言葉を読んだ智敏は、その紙を丁寧に折りたたみ、胸にしまった。濡れた髪からしたたる雨の雫(しずく)と涙が混ざり合って、流れ落ちていく。

 彼はゆっくりとソフィアの部屋を後にした。

 ナターシャの家を出て、あてもなくさまよい歩いた。空からは大粒の雨が降り注いでいた。

 何に背中を押されてここまで来たのだろう。これからどこに向かって流されていくのだろう。何も分からないまま、ひたすら歩き続けた。

 絶望の奈落。もはや、憎悪さえも失っていた。

 指示どおりに旅客機を撃墜させたオシポーヴィチ。反対派を抑え切れなかったゴルバチョフ。どちらにも罪はなかった。

 ソ連という巨大な悪には、実体がなかった。出会うソ連人はみな、一人ひとりが哀れな存在にすぎなかった。

 怨讐(おんしゅう)── 智絢を奪い去り、ソフィアを奪っていった仇は、どこにもいなかった。

 暗雲に覆われた空が低くなり、智敏の体も重く沈んだ。

 何度かよろめき、座り込んだ彼は、しばらくの間、立ち上がることもできなかった。

 やがて彼は再び歩き出したが、理由も目的地も存在しなかった。自分でもどこに向かっているのか分からないまま、ひたすら歩を進めるだけだった。

 「おい、起きろ」

 智敏は重いまぶたを押し上げ、軍靴で自分をこづく警官を見上げた。

 昨夜、さまよい歩き続けた末に、道端で眠り込んでしまったのだ。

 「何だ、お前? 身分証を出せ!」

 智敏はモスクワ大学の学生証を出さなかった。

 「こいつ、浮浪者か?」

 ソビエトでは浮浪者を放置しておかない。

 警官は疑いの目で見下ろすと、智敏の懐をまさぐった。出てきたのは、モスクワ大学の学生証だった。

 彼らは顔をこわばらせると、何やらひそひそとささやき合い、智敏に手錠を掛けて車に乗せた。

 「昨晩、デモをして逃げたものと見られるモスクワ大学の学生を捕らえました。ルビャンカに移送しますか?」

 無線を切った警官は、同僚に向かってぼやいた。

 「チッ。ひとまず取り調べをして、疑わしい点があれば連れて来いだとさ。面倒なことを抱えちまったな」

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 次回(9月14日)は、「モスクワでの再会」をお届けします。


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