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預言 28
霧の中の邂逅

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金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

28 霧の中の邂逅(かいこう)

 智敏(ジミン)は文(ムン)総裁のモスクワ訪問をやめさせなければ、と思った。

 自分が事を起こそうとすれば、彼が障害になるのは目に見えていた。

 たとえ不可能な計画だろうと、自分一人なら命を投げ出せばそれで済むが、文総裁と自分のつながりが明らかになってしまえば、何もできなくなってしまう。

 「フフッ」

 しかし、すぐに智敏は自嘲的な笑みを浮かべた。

 所詮不可能だというのに、そんなことを考えている自分が滑稽でならなかった。ひょっとしたら、卑怯(ひきょう)者である自らをただ慰めているだけかもしれない。

 それでも、智敏は文総裁が傍(そば)にいる状況で、自分がゴルバチョフを撃つ場面を想像した。

 摂理。

 文総裁はあらゆることを神の摂理と捉える人だから、彼に関して智敏が複雑に考える必要はなかった。

 自分が何をしても神が彼を保護するだろうし、万が一、保護できずに彼が死ぬとしても、それもまた神の摂理なのだ。

 「ハハハハハ!」

 智敏は久しぶりに声を上げて笑った。

 文総裁が来るというニュースはいい気分転換になり、どっと込み上げる懐かしさに、今までの憂鬱な状態がいくらか和らぐようだった。

 多少気分の良くなった智敏は、朝日がそろそろ顔を出し始めるという頃、暗がりにまだ濃霧が立ち込めているのを確かめると、コートを引っかけて家を出た。

 韓国で無頼漢として過ごしていた頃から、雨が降ったり霧がかかったりする早朝は、どこか物悲しく寂しい感情が込み上げてきて、心の赴くままに通りをさまよい歩くのが癖になっていた。

 あてもなく歩き続けてたどり着いたのは、名前も知らない広場だった。

 一寸先も見えない深い霧、まるで灰色のペンキを塗りたくったような濃い霧の中で、智敏は何とはなしに思い切り息を吸い、吐き出した。

 「プハー」

 息詰まるような胸の内のわだかまりをすべて押し流そうとするかのように、呑(の)み込んだ息を一気に吐き出すと、奇妙な解放感に包まれた。

 彼は世界と切り離されたような霧の中で思い切り腕を振り回し、大気を蹴り上げ、思う存分走り、大声を上げて笑った。

 「ハハハハハ、ワハハハハ」

 そんな自然な行動を、どれくらいしていなかったのだろう。

 ソ連に来てからは年中、24時間、見えざる目を恐れ、息を潜めて暮らさなければならなかった。

 智敏はさらに大きな声で笑った。そして歌を歌った。意外なことに、喉の奥から流れ出る曲の調べは韓国のものではなく、どこかで聞いたことのあるロシアのものだった。

 思わず苦笑いした後、何かしら韓国の歌を歌いたくて適当に叫び始めると、やがてそれは、ある曲のメロディーとなった。

 「アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を越えていく……」

 濃い霧の中、夜が白々と明けていく広場で、その歌は智敏の渋みのある声に乗って辺りに広がった。

 とめどなく目から流れ落ちる涙と共に、肩をくねらせて踊るアリラン。普段は歌ったこともないその歌を、彼は最後まで歌った。

 「大韓民国、万歳!」

 おかしなことだった。

 あれほど憎んでいた母国、大韓民国を呼び、万歳を叫んだ。胸の中からでも、頭の中からでもない、体の奥深くから湧き上がってきた声だった。

 智敏は万歳を叫び、いっそう大きな声で笑った。罪のない旅客機を撃墜されても、一言も言えない大韓民国の悲しみが滑稽だった。

 それでもまだ、自由を享受していると謳(うた)う大韓民国を、心底恋しがっている自分が滑稽だった。

 オシポーヴィチを殺すと言い、今はゴルバチョフを殺すと言いながら、ソ連の地で独り踊っている自分が滑稽だった。

 全く実感が湧かず、ただ虚(むな)しさしか感じられないソフィアの死が滑稽だった。

 あれほど恐ろしく思っていたソ連なのに、その実像は独裁と圧制の中でうめき声を上げるしかない不幸な国民の国だということが滑稽だった。

 このすべての不幸を、理念の一言で片づけてしまう世の中が滑稽なことこの上なかった。

 「ふふふ」

 智敏は笑っているのか泣いているのか分からない声を上げて、広場の真ん中に座り込んだ。

 しばらく座っていると、冷え冷えとした湿っぽい空気が辺りを包み、徐々に体が動かなくなってくる。

 やっと起き上がった彼は、家の前の居酒屋に足を運んだ。

 最近、智敏は昼夜の別なくここを訪れていた。

 貧しい通りにあるこの居酒屋は、朝まで飲み続ける酔っ払いをつかまえるつもりなのか、夜通し店を開けていた。

 客が一人もいない居酒屋に荒々しい足取りで入った智敏は、安物のウオッカを一瓶注文し、すぐさま瓶に口を付けてあおった。

 「どんなに酔っても酒代はきっちり頂くよ」

 暇そうに声をかけてきた居酒屋の主人に、智敏は紙幣を一枚差し出した。

 「ジミー、韓国から来たって言ったよな。何だってこんな寒い国に来た?」

 智敏はしばらく考え込んでから、首を横に振った。

 「さあね、どうしてだろうな」

 「分からないのか? それならここで何をしてるんだ?」

 「何をしてるのかも分からない。ただ妹に会いたかっただけなのに。哀れな俺の妹。それにソフィア。ソフィアに会いたい。どうしてこんなことになってしまったんだ。なぜ俺は今、こんなことをしているのか……」

 智敏のような酔客を何百人も見てきた主人は、慣れたようにうなずきながら、腕を伸ばして智敏の肩を軽く叩(たた)いてやった。

 そして薄い色のボルシチを皿に注ぐと、智敏の前に差し出した。

 「モスクワは常に真っ白だ。恋人や何か大事なものをいつも失ってばかりさ。ここの人々は、あの白く降り積もった雪を見ながらラムを飲むんだ。ラムで昨日を消し去り、ウオッカで新しい明日を夢見る。またラムに戻っちまうのが問題なんだが……。ほら、飲めよ。飲んで忘れるんだ。明日はもっといい女が現れるさ」

 「ありがとう」

 その時、主人の視線が智敏の後ろのドアのほうに流れ、留まった。

 彼はにっこりと笑って言い足した。

 「もしかしたら、あんたの幸運は明日じゃなくて、今すぐ訪れるかもしれないぞ」

 主人の言葉と同時に、智敏の後ろでドアが静かな音を立てて開き、誰かが入ってくる気配がした。

 若い女の香水のような匂いが漂う。智敏は苦笑いに顔を歪(ゆが)めながら、再びウオッカを口に含んだ。

 もっといい女。もしそんな女が現れたとして、それが一体何になる。自分の父親を捨ててまで、俺の汚名をすすぐために手紙を書いてくれたソフィア。

 彼女以外の女に、何の意味があるというのだ。すべてが虚しかった。目的さえ果たしたら、彼女の後を追うだけでよかった。

 「ジミー!」

 「ハハ、ジミーだって? 俺の名前をどうして知ってるんだ? 誰だか知らないが、からかうのはやめてくれ」

 智敏は反射的にそうつぶやき、フッと笑った。一体誰が自分の名を呼ぶというのだ。

 それもソフィアの声音で。どうせここの主人から話を聞いた、道端の女に違いない。

 「ジミー」

 再びその名前が呼ばれた瞬間、智敏の顔がこわばった。

 声。まさにこの声だ。

 まさか。死んだ人間が生き返って、このしがない居酒屋に、俺の前に現れたとでもいうのか。

 雷にでも打たれたかのように、智敏は体を震わせた。一瞬でも、そんな脆(もろ)い期待にすがるわけにはいかなかった。

 しかし、到底振り返らずにはいられない声だった。たとえそれが、ソフィアを真似(まね)た偽物の声だったとしても。

 智敏はゆっくりと振り向いた。そして、その場に座ったまま石像のように固まってしまった。あれほど捜し求めた顔が、自分を見つめていた。

 「ソフィア」

 ほのかな笑みを浮かべた、切ないまなざしだった。

 目元は憔悴(しょうすい)し、肌は荒れていたが、世界で一番美しい、昔のソフィアのままだった。

 しばらくの間、智敏とソフィアは見つめ合った。

 スローモーションのようにゆっくりと立ち上がった智敏は、手を伸ばして彼女の頬に触れた。

 「これは夢じゃ……ないんだよな?」

 今にも消えてしまいそうな虚像をつかむかのように、智敏は震える声で問いかけた。

 手の平を頬に当てたまま、指先だけを動かして彼女の顔をなで、胸の中で言いたい言葉を反芻(はんすう)する。ソフィアの名前をもう一度呼ぼうとした智敏は胸を締めつけられ、喉がつかえる中、かすれた声で、たどたどしく言った。

 「本当に、本当に君なのか?」

 「ええ、ジミー。私よ」

 「本当に?」

 「ええ、本当よ」

 顔を歪めることも、すすり泣くこともなかったが、智敏の目からは一筋の涙が流れ落ちた。

 経緯や理由など、どうでもよかった。今この瞬間に、指先に触れている顔、それが現実であることを心から願いながら、智敏はささやいた。

 「生きていた、生きていたんだね。良かった。ソフィア、本当に良かった」

 彼女の小さな頭をぐっと抱え込み、智敏はつぶやいた。

 幸運。今まで彼にはその影さえも見せなかったのに、今、世界中のすべての幸運が、自分に向かって一斉に押し寄せてきたような気分だった。

 良かった。良かった。

 その言葉だけを何度も繰り返しながら、智敏はソフィアを抱きしめ、体を震わせた。

 ソフィアはじっとしていた。智敏もソフィアを抱いたまま、石像のように固まってしまった。

 とめどなく時間が流れようとも、智敏はその瞬間を手放そうとはしなかった。

 「とうとう会えたな」

 ケンカ別れをした恋人の再会を見物するかのように、邪魔にならないよう二人を見守っていた心優しい主人が、拍手をしながら立ち上がった。

 「戸締まりをして、鍵は天井裏に置いとけよ」

 主人は満足げに言うと鍵を放り投げ、ドアを開けて出て行った。

 智敏はソフィアの唇に自分の唇を近づけた。しっとりと柔らかい唇が当たり、やがて重なると、智敏は目のくらむような思いで彼女をさらに引き寄せた。

 しかし、ソフィアはさっと体を引いて、その手を逃れた。ぎこちない笑みを浮かべる智敏を、ソフィアは寂しげな目で見つめながら口を開いた。

 「遠くからあなたの後ろ姿を見つめながら、何度あなたの名を叫びそうになったかしれないわ。あなたを危うくさせてしまうことが分かっていても、あなたのもとに駆け寄って行きたかった。以前ここに来た時は、あなたの残したぬくもりを感じるだけで我慢したのに」

 「……」

 「あなたが国に帰ることを心底望んでいたけど、その一方では、本当に帰ってしまったらどうしようって不安に駆られたわ。ジミー、どうして来てしまったの。私はあなたとの思い出だけを糧に、やっとのことで生きていたのよ。それなのに本当に現れてしまったら……しかも、自暴自棄になって毎日酒に溺れているあなたの姿を見てしまったら、私は……」

 流れ出る言葉が詰まり、ソフィアは次の言葉を無理やり呑み込んだ。

 そして一度目をぎゅっと閉じてから、腕時計で時間を確認した。

 「ジミー、簡単に説明するわ。私はアメリカに行くの」

 「アメリカ? 本当に?」

 「ええ、それを言おうと思って、今日あなたの前に現れたの」

 「俺がソ連に来たことが、どうして分かったんだ?」

 「ナターシャよ。モスクワ大学の赤い髪の職員。私たちはレジスタンスをしているの。KGB廃止のために闘争してきたわ。グラスノスチもペレストロイカも、事の成否はKGBにかかっている。今まで隠れてやれることはやってきたけど、これ以上はもう活動できないほどに目をつけられてしまって。それで、仲間が何としてでも私を国外に送り出そうとしてくれたの。ちょうど安全なルートも確保できたわ。これからはアメリカで活動する」

 「レジスタンス?」

 「父の話は聞いたでしょう?」

 智敏は重々しくうなずいた。

 「父はゴルバチョフについて行くと決めたの。ゴルバチョフの指示に従って、アメリカの穏健派の人物と水面下で接触して、彼らの支持を得ようとしていた。ロシアに戻ってから、父があなたを利用して、FBIの追跡を受けていた連絡係を逃がしてやったことを知ったわ。絶望の底で、私は外交官である父を政治的に葬り去ることになっても、あなたの無実を主張しなきゃいけないと思って手紙を書いた。父はそれを知りながらも、私を止めなかったわ」

 「刑務所の前で、その手紙を読んだ時の気持ちは忘れられないよ」

 「父はあなたに対する罪の意識に苛(さいな)まれていたけど、祖国ロシアのためには、ほかに道がなかったの。結局KGBに消されてしまったから、私の手紙が父を葬ることにはならなかったわ」

 「……君のお父さんの行動も理解できるよ」

 「ありがとう。悲劇的な最期を迎えることになったけれど、両親はゴルバチョフの改革のために、いえ、祖国のために意義ある人生を送ったわ」

 ソフィアの口からはゴルバチョフという名前が頻繁に飛び出した。

 智敏はそのたびに、彼女から目を逸(そ)らした。

 「ソフィア、君も流刑地に連れて行かれたって聞いたけど」

 ソフィアは声を潜めた。

 「助けてくれる人がいたの。収容所に送られた私を逃がしてくれて、偽の身分証を作ってくれた。その人は私を外国に送ろうとしたんだけれど、それは断ったわ。あれほど父が夢見たロシアの民衆の解放。少しでもその手助けをしたかったから」

 「そうだったのか」

 「これまでその身分証があったから、何とか地下活動ができたけど、今はもう危険が目の前にまで迫ってきているの。KGBと軍部が目を光らせて、全国で抵抗勢力を探し出しては断罪している。反体制派の運動家たちを国家転覆勢力として追い込むのは、結局のところ、ゴルバチョフの首を絞めようという魂胆よ」

 「ソフィア」

 「ええ」

 「ゴルバチョフは……」

 「え?」

 「彼はソフィアの味方なのか?」

 「私の味方かって? おかしなことを言うのね。……そうね、彼はロシア国民の味方よ。私たちはゴルバチョフを守らなければならない。彼を失ってしまったら、ロシアはおしまいよ」

 ソフィアはよほど急いでいるのか、もう一度時計に目をやり、言葉を切った。

 「とにかくジミー、私は3日後にアメリカに行くわ。一緒に来られる?」

 「3日……」

 「急過ぎるわよね。でも早く決断して。私のために。先に行って、あなたが来るまで、毎日ポトマック川のあの船着き場で待ってるわ。私たちが別れたあの場所で」

 「ソフィア」

 「答えて。すぐに来られるでしょう?」

 「行けることは行けるだろうけど……それよりソフィア、俺は」

 「ジミー、何を迷っているの? 私たちが幸せになる道は、これしかないのよ」

 智敏は返事をためらった。

 ソフィアは再び腕時計に目をやって、焦りの色を濃くしたが、切なげな手つきで智敏のもつれた髪を優しくなでた。

 「ジミー、早く来てね。周りの人にも挨拶しなくちゃならないだろうけど、何よりもまずチケットの予約をするのよ。アメリカ行きの便はチェックが厳しいから、急がないと」

 「愛してるよ、ソフィア。心から」

 時計を見て立ち上がろうとする彼女に向かって、智敏が急(せ)き立てられたように言うと、ソフィアは美しい笑顔を見せた。

 「ジミー、もう行かなくちゃ。本当に時間がないの」

 ソフィアは智敏の唇にそっと口づけをした。

 そして追われるようにくるりと背中を向け、ドアを開けた。短過ぎる再会。智敏は名残惜しく手を伸ばして引き留めようとしたが、既に彼女はドアの外に立っていた。

 ソフィアはそのまま去るかのように見えたが、つと振り返って智敏を見つめた。彼女は唇を噛(か)みしめていた。

 「ジミー、もし……」

 「え?」

 淡い微笑の合間に痛ましい表情がよぎるのを、智敏は捉えられなかった。

 ソフィアは何でもないというように首を横に振り、ほほ笑みながら再び身を翻すと、霧の中に消えていった。

 智敏は追いかけるべきかどうか悩んだが、ソフィアの身に危険が及ぶかもしれないという思いから、そのままぺたんと椅子に座り込んでしまった。

 予想外の出来事が怒濤(どとう)のように押し寄せ、去って行った。

 ソフィアは間違いなく生きており、ポトマック川での再会を約束した。湧き上がってくるあふれんばかりの感激に、智敏の顔には我知らず笑みが浮かんでいた。

 しかし、やがて落ち着きを取り戻すと、わずかに首をもたげていた良心の訴えを、智敏は無理やり打ち消した。

 ソフィアの言葉がすべて事実だったとしても、本当にアメリカで幸せな日々が待っていたとしても。ゴルバチョフは? 智絢(ジヒョン)の復讐(ふくしゅう)は?

 幸福は目の前で手招きしていたが、それに向かってただ歩き出すことなど、できないではないか。智敏は再びウオッカをあおった。

 「どうすればいい」

 二律背反の秤(はかり)は、両方とも重かった。

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 次回(9月7日)は、「赤の広場」をお届けします。


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