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心情開拓
心霊を育てる生活原則(13)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

1 牧会

▲李耀翰先生

侍る

 初めて召された時、「原理」によって刺激を受けた時の情は、幼子の立場なのです。だから初めのうちは、自分の位置も分からずに、神の存在を知って神が自分の父だということを知り喜んで、「お父様」と言っているのです。本当は、私たちが「お父様」という名を呼べるまでには、相当、人間としての責任と蕩減(とうげん)条件を果たさなくてはならないのです。

 だからある期間、3カ月とか7カ月間過ごしてみれば、だんだんと今まで自分が神に対した歴史が分かって、謙遜(けんそん)になってしまうのです。神に対して、大胆に「お父さん」と言えなくなってしまうのです。その時には、教会に行って、「何かさせてください、自分は何でもやります」という僕(しもべ)の立場に下るのです。

 親は子供に対して、何でも侍ってあげたいという、僕の心をもつのです。自分以下の人に対して、何かやってあげたい、喜ばせてあげたいという心は、親が子供に対する心であり、また、自分が謙遜に低くなりたいという心です。

 自分の罪というものがよく分かれば、アベル・カインの場合と同じく、霊の親子も、立場が違うだけなのです。でも、ある時には、親の立場で命令しなくてはならない場合もあるのです。いつも笑いながら歓迎するだけではいけない時もあるのです。

 み旨に対して自分の責任を果たすということは、自分を伝道してくれた親に、あるいは天に侍ることなのです。侍るというのは、目上の人だとか、天に向かって何かするのではなく、反対に、天が地に向かって創造目的をなそうとする方向に自己を置くことなのです。それが、天が望む本然のものをなすことです。

 情の世界では、ある人を中心として集まることを好まないのです。それより、情の目的のために、必要な実を結ぶことが、その人にとって一番の喜びの世界なのです。だから、普通の父母でも、息子が家庭で礼儀正しいとかということよりも、外的に社会的に人にあがめられるとか、称えられるとかということのほうを、父母の本心としては喜ぶのです。

 霊の親にしても、自分の伝道した人が自分より先に教会長になった時は、自分より以上に早く神に近い立場で孝行する人を導いたから、それは栄光です。しかし、自分は教会長なのに、伝道した人が伝道師にもならないのだったら恥です。父母は、自分の生んだ子供が自分より有名になるのが希望なのです。だから、あとから来た人が自分より栄光ある仕事をするのを見たら、喜んで信仰の兄と思うのです。

 カインが先に長男として生まれたけれど、神に帰っていくには、アベルが先に祝福される。そういう時には、アベルに侍るというより、貴重に思えばいいのです。あとから来た人は、先に来て自分を導いてくれた人に対して、いつも信仰の兄と思えばいいのです。だからといって、必ず相談し、指導を受けろというのではないのです。自分のやった仕事をしばしば報告して、その人を慰めるのです。

 結局、侍るというのは、神の創造目的に対して自分が実績を実らせるという問題だから、物質的問題とか、組織的問題に支配される必要はないのです。かといって、あとから来た人は、全く知らん顔をして、導いてくれた人に対してもあいさつ一つせず、自分の道を先立って行ったならば、伝道した人の心は、ちょっと寂しくなるのです。もちろん、先立って神の命令を果たすのはいいのですが、自分との関係が切れてしまうと、何だか寂しくなるのです。だから、そういうふうにしないほうがいいのです。

 寂しくなると、天から見た時は、それも一つの条件になってしまうのです。だから、兄弟だれしも自分のために不快な心をもたないように、たまには手紙を出して慰め合えば、手紙をもらった人は、とても済まなく思うのです。当然だとは思わないのです。

霊的枯渇

 信仰生活において、初めは喜んでやるのだけれど、そのあとの霊的な発展ができないのには、三つの問題があるのです。

 一つは、中心の問題です。例えば、教会長が本来の主体者としての心配をしないで、仕事の結果ばかりを心配するようになる場合です。仕事のために、人の心を犯す時があるのです。結局、出発の時に主体者と結んだ情的な関係が長続きしない時に、その人の信仰が下がっていくのです。

 教会長と情的に結んだ基台が維持できれば、50名くらいは維持できるのです。50名以上増えない理由は、情的基盤が広くならないからです。

 情というものは、木でいえば根です。見えないけれども、根が広いほど外的に茂っていくのです。私の経験からすると、教会長である自分自身と同じくらいの信仰の情的基準を結んで交わる兄弟を3名つくれば、30名は必ず増えるのです。12名くらい情的に結べば、120名くらいは増えるのです。

 時間がたてば、信者は増えるけれども、情的に結ばないと、30名あるいは50名以上には増えません。いったん集まった人たちが、次々に落ちてしまうのです。そして霊的に全部が枯れそうになり、教会長自身も、教会に来る人を見てもうれしくもない、「ああ来たか」と言うだけになってしまう。最初と全く違ってくるのです。それが危ないのです。

 もう一つの原因は、その人が蕩減条件を立てていないからです。以前から自分が神に対していた心構えが、いつまでたっても変わらないとすれば、信仰的な発展はできません。

 私たちはいずれかの面で、常に条件を立てて発展しなくてはならないにもかかわらず、長くこの道を歩むと、習慣的に信仰する人になってしまうのです。それを教会長が見て、その人は自分から「私はこのまま生活を繰り返してはいけないと思うのだけれど」と心配して、自分が条件を立てなくてはならないことを我知らず口にするのです。それを、その人より先立って蕩減条件を立てつつ歩んできた人が聞けば、その人が何をしなくてはならないかということがすぐ分かるのです。その本人も、やはり分かるのです。

 初め教会に入る時は、蕩減条件を立てて入るのです。例えば、献身したという条件、そして、献身したのち1カ月か7カ月か、ある期間が過ぎると、献身した当時と同じ心ではないのです。下がっていくのです。なぜ下がるかというと、その人が献身した時は、父母も家庭も職場も、全部捨てて来たという条件で、ある期間過ごしてきたのですが、今度は、すべてを捨てて何をしに来たのか、すべてを捨てた目的をなしていくことを条件としていかなくてはならないのです。

 だから、何を勝利し、どういう実績を上げたかということが条件となり、それを天に報告する、それができないと信仰が下がっていくのです。

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 次回は、「実績/行う」をお届けします。


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