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日本を愛した文先生の足跡(3)
早稲田

(光言社『グラフ新天地』384号[2000年7月号]「日本を愛される文先生の足跡」より)
 

 8月24日に迎える文鮮明総裁聖和9周年を記念して、「日本を愛した文先生の足跡」(全15回)を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。

 1965108日、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生は東京都中野区野方にあった早大原研寮(成和寮、後の早成寮)を訪問されました。そこで日本留学時代のことを話されたのです。

 「早稲田の高田馬場の道を、先生は一日に2回ずつ歩いたよ。よく歩いた。今も歩いてみたらなんだな、月が出ておるよ。それを思うと今晚近い所へ来たんだから昔を思い出す。一度歩きながら、神に対して祈った日本での情が日本の一角に成しえられた感謝の念を抱きたい、先生、こう思う。もしもそういうことをできずして国に帰ったならば、君たちがそういう気持ちでもって、早稲田の戸塚町を、高田馬場から歩いてほしい。わかりますか? そこにある角道、そこにある電信柱、そういう君たちの記憶に慣れている所には先生の涙があることを思っても、それは間違いないでしょう」(『日本統一運動史』、p7172

▲日本留学時代の話を交えながら語られる文先生(1965108日、東京都中野区野方・早成寮)

 そして「この早稲田の若者たちを記憶してください」と祈られました。

 その日、成和寮は文先生によって早成寮と改名され、「天宙成寮 早成勇士」という揮毫を下さいました。

▲「天宙成寮 早成勇士」という揮毫を下さった(1965108日、早成寮)

 帰り際に、文先生はテーブルの上に用意されていた上等なリンゴやバナナを、集まっていた一人一人に手渡してくださり、ご自分は粗末な小さなリンゴをひとつ手に取り、「先生はこれを頂いて行きますよ。本当はこれがおいしいんだよ」と言われました。

 そして先生の車にいつまでも手を振っているメンバーたちに、窓から手を出され、車の屋根をバン、バン、バンとたたいて行かれました。

学生時代、下宿された三橋家を訪問

 学生時代、文先生は東京都淀橋区戸塚町1丁目(現在の新宿区西早稲田2丁目)の三橋(みつはし)孝蔵・イトさん宅の2階に下宿しておられました。早成寮訪問に先立つ65129日、文先生は下宿先であった三橋家を長時間かけて捜され、三橋イトさんと劇的な再会を果たされました。

▲学生時代の下宿先の家主、三橋イトさんとの再会(1965129日)

 留学時代は文先生にとって、メシヤとしての使命を全うされるための深刻な準備の期間だったのです。「文総裁はこの原理を捜すために、満身創痍(そうい)になって、一日に12時間も14時間も祈祷したことが何年も続きました。…原理の本には血と汗と涙が絡み合っています」(『真の御父母様の生涯路程』①、p199)。原理の解明のみならず、品川の貧民街や新宿の裏町に行かれたり、川崎の造船所で労働されたり、あらゆる体験と研究をされたのです。

 韓国人蔑視(べっし)と差別の強かった戦時中にもかかわらず、三橋家は快く文先生に下宿を提供され、温かくお世話されたのでした。