夫婦愛を育む 160
人の幸せがまぶしい

ナビゲーター:橘 幸世

 季刊誌に目を通した知人がつぶやきました。
 「幸せそうな家族の写真ばかりで、今はちょっと読む気になれない…」

 もちろん彼女は、それらの笑顔の背後にたくさんの涙や葛藤があったことは承知しています。自分にとってプラスとなるヒントがあるかもしれないことも頭では分かっています。でも、いろいろあって少し疲れていたのかもしれません。そして、そんな気分を分からないでもない私です。

 それを聞いて思い出したのが、「リア充」という言葉でした(私はSNSをやっていないので、理解が不十分かもしれませんが)。

 ひと頃、海外旅行や仲間との集まりなど、知り合いの幸せそうな様子の投稿写真を見て、嫉妬したり落ち込んだりする若者たちのことを耳にしました。
 負けじと自分も楽しそうなシーンを投稿しますが、それは一瞬を切り取っただけ。実生活ではあまり満たされていません。SNS上だけの幸せ(仮想?)に対して、実生活(リアル)が楽しく充実していることを「リア充」と呼んだということです。

 人と比較して、自分で勝手に落ち込んだり惨めになったり…、誰にでも経験があることかと思います。

 「比べるな」「見えていないだけで誰にでも悩みはある」「足るを知る」など、そんな葛藤への処方箋もさまざまに示されていますが、理性と感情は別、振り払うのはなかなか容易ではありませんし、いったん心を収めても、また何かのきっかけで湧いてきてしまいます。

 韓国の麗水の修練会に参加した姉妹からこんなことを聞きました。

 真のお父様を囲んでのひととき、ある婦人が「○○しました」とお父様に申し上げると、「人が嫉妬するからそういうことは言わないんだよ」と答えられたそうです。
 私たちの厄介な“さが”をよくご存じで、そんな側面を否定されないのが有り難いです。

 神様の立場に立って、人の幸せを神様と共に喜ぶことがなかなかできない時、そんな自分を責めてしまうかもしれませんが、それでは葛藤が増すばかりです。
 愛の減少感自体は創造の副産物、「ああ、自分は今願いがまだかなわないので寂しく感じているんだなぁ」と認識することにとどめましょう。

 「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ」(箴言 第1312節)と聖書にありますが、どれほど長い間心を悩ましてこられた神様でしょうか。それでも私たちへの愛ゆえに歩みを止めることがなかった神様でした。その愛を心で感じられる時、力を頂いて越えていけるのかと思います。

 神様の心情との連結がまだまだ弱い私などは、間にあってつなげてくださる存在の貴さに改めてこうべを垂れるのです。


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