信仰と「哲学」71
関係性の哲学~スピノザの哲学に対する見解(5)

痛烈な「選民」批判

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 スピノザの神観は、アルバート・アインシュタインに衝撃を与えました。

 アインシュタインは「聖書の神は信じないが、スピノザの言う宇宙的な神ならば信じる」(フレドリック・ルノワール『スピノザ よく生きるための哲学』ポプラ社)と答えていたというのです。
 さらに「私が信じているのは、存在するすべてのものの調和の中に顕現するスピノザの神」であるとも語っていました。

 「聖書の神は信じない」の意味は、補足説明が必要だと思います。
 ここに込められた意味は、恣意(しい)的に人間に恩寵(おんちょう)を与え、罰を与えたりする存在としての神という観念を意味していると言えるでしょう。すなわち、人間と神との関係に迷信が入り込むことを嫌ったのです。
 迷信というのは、人間の利己的欲望がつくり出した神と人間との関係性なのです。

▲アルバート・アインシュタイン(ウィキペディアより)

 スピノザが問題視したのは、不安と期待に突き動かされる人間を威迫したり、時には安心させたりするためだけの迷信でした。

 スピノザにとって、またアインシュタインにとって、旧約聖書の選民イスラエルと神との歴史的な関わりは、無原則すなわち恣意的な神と人間が互いに利己的な動機で関わり合う姿としか捉えられなかったのでしょう。

 聖書に登場するさまざまな礼拝の形式についても、それによって神の寵愛(ちょうあい)をより多く受けられるからという、すなわち利己的動機が根底にあると考えたのです。

 スピノザは『エチカ』第一部付録の中に次のように記しています。

 「かくして人間社会では、自分たちが万物を自由に利用できるよう神々が取り計らってくれたのは、自分たちが神々に感謝の念や忠誠心をいだき、神々を大いにあがめ、讃えるためである、という考え方が広く受け入れられるようになる。その結果、人間たちはそれぞれ生来の気質に従って神を崇拝する方法を考え出したが、多彩な礼拝形式が生まれたのは、それによって各人が神の寵愛を他の人々より多く受けられ、自然のすべてを自分の盲目的欲望や際限のない渇望に合わせて調整してもらうためである。こうして人間の憶測が迷信となり、やがて人々の心に深く根を下ろすに至った」

 スピノザの見解は、ユダヤ教と選民イスラエルに対する批判と捉えられました。
 その結果スピノザはユダヤ教から破門され、命までも狙われ、その生涯は苦難に満ちたものとなりました。しかし自らの信念・哲学の故にその道を貫いたのです。