光言社 編集者ブログ

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2020年07月09日

私の祝福体験記⑤「主語を神様にする生活」

「オンニは、祝福に向けてどんな精誠を立てましたか?」

 

これは、大学4年生のときに祝福を受けてから、後輩たちによく質問された内容の1つ。

最近は祝福後のことを綴っていましたが、今回は祝福を受ける前のことを書きたいと思います。

 

とは言っても、祝福に向けて立てた精誠条件で思い浮かぶのは、祈祷と訓読くらい。

あとは、光言社から出版された祝福関連の本を読むくらいでしょうか・・・・・・。


相対を探す期間も、約婚してからも、祈祷と訓読のみ。時間も何時間というわけでもなく、20分前後(汗)

ただ、それ以外に意識していたことが1つあります。

私が高校生の頃、母から突然「もし、真のご家庭と祝福を受けることになったら、どうする?」と質問されました。

祝福はいつか受けたいと思っていましたが、「真のご家庭となると、まずは韓国語や英語を話せるようにならないといけないよなぁ。常に摂理のために歩むことになるんだろうなぁ」という考えが浮かびました。

「うーん、それは、嫌かなぁ・・・」という私の答えに、「そうか・・・、そうだよね・・・」と、母は少し悲しげ(?)につぶやいていました。

 

そんな母を見ながら、「そうか、祝福に向けて準備するとは、真のご家庭と受けられるくらいの準備と決意が必要なんだろうな。『あなたの相手は、真のご家庭の○○様です』と言われても、『はい』と答えられるのが、自我がない境地なんだろうな」と思いました。

(高校生なのにずいぶんな悟りを開いていて、我ながら驚きです。この自我がない境地には、未だ至れてませんが・・・)

 

ちなみに、最近になって、このときのやり取りの話を母にしたら、まったく覚えていないとのこと(笑)

私にとっては忘れられない思い出なので、霊界が働いていたのかもしれませんね。

この気づきを得てからは、自分をなくすこと、自己否定できるようになろうという思いを、いつも頭の片隅に置いていました。

 

また、鮮文大に進学すると、食口の教授が「主語を神様に」と、いつも語っていました。

何をするにも、自分ではなく、神様を主語にして考え、行動するという意味です。

自己否定というと、自分を押さえつけないといけないのか、苦労しないといけないのか・・・と考えてしまいそうですが、「主語を神様にする」と聞くとなんだかワクワクしました。

それで、普段の生活の中で、神様と真の父母様を意識するようにしてみました。

 

そんなふうに神様中心に考えていると、やるべきこと、やりたいことがたくさんあり、大学時代は毎日忙しく過ごしました。

朝から晩まで、勉強に公的な活動にと飛び回り、時間がなくて「祝福に向けてあまり祈祷や訓読はできないけれど、活動も精誠だと思って、毎日を公的に歩むので、神様赦してください!」と祈る日もありました(神様ごめんなさい)。

今思えば、祈りと勉強と活動のバランスをもう少し整えれば良かったと思います(^0^;)

それでも、祝福の話はとんとん拍子に進み、すばらしい主体者に出会うことができました。

取るに足りない精誠を受け取ってくださった神様に感謝です。

「主語を神様にする生活」を意識したおかげか、葛藤することもほとんどありませんでした。

これからも、生活の中で真の父母様と対話しながら、過ごしていきたいと思います。

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