共産主義の新しいカタチ 122

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

「快楽原則」の抑圧なき文明でフロイト超え
ヘルベルト・マルクーゼ(上)②

▲ヘルベルト・マルクーゼ

秩序崩壊を診断するフロイト哲学の本質
 「文明は人間の本能を永久に抑圧することである、というジークムント・フロイトの提唱は、今日までそのまま受け取られてきた」という書き出しで始まるのがマルクーゼの『エロス的文明』(南博訳)です。

 そしてさらに、「人間の本能的な欲求を自由に満足させることは、文明社会には許されないものであり、つまり、満足を放棄し、それを我慢することが、進歩の前提であるとされる。フロイトは『幸福は文化価値ではない』といった。幸福は、フルタイムの職業の規律に従い、一夫一婦制の性の規律を守り、現存の法と秩序に従属しなければならない」と続けています。

 マルクーゼはフロイトを「人間についてのひとつの理論、厳密な意味での、ひとつの『サイコロジー(心の科学)』を発展させた。この理論によって、フロイトは、彼自身を、哲学の偉大な伝統と水準に、位置づけたのである」と評価。

 そして、「フロイトは、彼自身の哲学(精神分析の背景にある思想)を、良心的に彼の科学(精神分析の技術)から区別した」にもかかわらず、と新フロイト主義者たち(フロム、サリバン、ホーナイら)が「フロイトの哲学の大部分を否定した」とフロイト後の状況を非難します。

 これらを述べた「序論」で決定的なのが、「フロイトの哲学」の本質が、「秩序の崩壊を全体として診断することを目指す理論」で、その理論的「発展」を、「治療上の実践理論」によって妨げられてはならない、とクギをさしました。

 実際、フロイトは元来は「精神科医」であり、解剖学とヘッケルの「系統発生学」、ダーウィニズム(進化論)を範として自らの打ち立てた精神分析学を「深層心理の解剖学」たらんとしたのです。

 それでも、フロイトの大胆不敵な種々の言説(文明論)に「哲学的原石」を見たマルクーゼは、より深くフロイト思想を敷衍(ふえん)していった中でマルクスとの「融合」を企てたといえます。

 しかし、訳者の南氏も、マルクーゼによる独断的なフロイト解釈は、「ひいきの引き倒し」でフロイトを擁護し過ぎていると「訳者序」で指摘しています。

フロイトの文明論をマルクスで処理
 マルクーゼは本論の冒頭で「フロイトによれば、人間の歴史は抑圧の歴史である。文化は、人間の社会的な存在だけではなく、生物的な存在も制約し、人間存在の一部分だけではなく、本能の構造それ自身をも制約する。その制約こそが進歩の前提なのである」と述べ以下のように続けます。

 人間の基本的な本能は、自然の目標を追及するのに任せておけば、すべての永続的な結合と維持に反するだけではなく、統一を破壊してしまう。コントロールされないエロスは、その恐ろしい満足を追い求めるところから生まれてくる。それはどんな場合にも満足のための満足を求めることであり、それ自身が目的になってしまった満足である。だから本能を、目標からそらし、目的とするところを禁じる必要がある。文明は、欲求の全面的な満足という原本的な目標を効果的に禁止するときから始まる。

 本能のさまざまな姿は、文明における心的構造のさまざまな姿である。動物にもみられるような動因は、外界の現実に影響されて、人間の本能となる。本能が生体の中でしめる本来の「位置」と、その基本的な方向は、変わらないが、その目的と、あらわれかたは、変わってゆく。精神分析のあらゆる概念(昇華、同一化、投射、抑圧、取り入れ)は、本能が変化することを意味づけようとしている。しかし、本能とその要求および満足を左右する現実は、社会的・歴史的世界である。動物としての人間は、その本性が、根本的に変えられるとき、はじめてひとりの人間という存在になる。その場合、本能の目標だけではなく、その目標に達するための原則である本能の「価値」も、変化をこうむるのである。その支配的な価値体系の変化は、仮に、次のように定義できるだろう。(下図参照)

 フロイトは、この変化を、快楽原則から現実原則への変化として記述した。心的構造を、この二つの原理で解釈することは、フロイト理論の土台であり、その二元論的な概念の内容は、いろいろに変わったけれども、その点だけは変わらずに残っていた。それは、大体(完全にではなく)、無意識の過程と意識過程の区別に対応する。個人は、いわば、ちがった心的過程と心的原理に特徴づけられた二つの違う次元にまたがって存在している。この二つの次元は、発生的・歴史的に違うと同時に、構造の上でも違っている。快楽原則に支配される無意識は、「より古い原本的な過程、つまり、それだけが唯一の心的過程であった発達段階の名残りである」。それは、「快楽を得るために」だけ追及をつづけ、「心的活動は、不快(「苦痛」)をもたらすどんなことからも、退却する」。しかし、無制限の快楽原則は、自然の環境、人間の環境と衝突するようになる。ひとは、自分の欲求を完全に、苦痛なく満足させることは不可能であるという、痛ましい事実に気がつくようになる。そうしてこの失望を経験した後で、新しい心的機能の原則が、勢いを得るようになる。現実原則が、快楽原則を凌ぎ、人間は、一時的で不正確な破壊の快楽をあきらめ、遅延し、制限する代わりに「安全を保証された」快楽を選ぶようになる。

 フロイトは、本能を恣(ほしいまま)にする「快楽原則」が破壊的だから、その抑制により文明が進歩したと見ます。ところがマルクーゼは、快楽原則の抑圧なき文明を弁証法的に模索するのです。

「思想新聞」2026年7月15日号より

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