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創立61周年記念
日本統一運動史 5
日本留学時代④

 日本家庭連合(旧日本統一教会)創立61周年記念として『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』を再配信します。
 創立40周年の際に発刊されたこの書籍は、日本における文鮮明・韓鶴子総裁ご夫妻の貴重な歴史的足跡と、多岐にわたる統一運動の歴史をまとめた一冊です。
 今、改めて読んでおきたい、日本の統一運動の歴史を振り返る連載です。

歴史編纂委員会・編著

(光言社・刊『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』より)

第一章 メシヤとしての準備時代における真の御父様と日本
(1941年から1945年8月15日まで)

二、 日本留学時代(1941.4.1〜1943.10)

(5)僕の僕の生活
 僕(しもべ)の僕(しもべ)としての哀れな神様を知り、また人類が神の前に犯してきた罪の数々を知った真の御父様の生活は、罪人としての贖罪(しょくざい)の生活であり、僕の僕の生活でした。

1. 御 言

①「先生も35歳までは僕の僕たることに徹して、自分の服を買ったこともないし、整髪料等を付けたこともほとんどないくらいです。その上いつも45度以上は顔を上げずに下を向いて歩いていたほど、罪人の立場に自らを置いていました。一人の罪人になりきっていたのです。また、自然が罪なき真の人間によって見られたいと願っていることを知りながらも、自らの摂理的使命を成し遂げるまでは、清き自然を見る資格も権利もないことを感じては、大自然の前から身を隠したくなるのでした。罪人となって歩む自分自身が、真に罪深き者として感じられるほど、そうなりきっていたからです。」(1977.5.1)

②「先生は富士山にも学生時代行けなかった。先生は四方八方よく見回る性質を持っている。しかし、友達は切符を買って『それで行こう』。切符なんか買ってきても、学生時代は暇がなかった。それよりは日本の隅から隅まで辛い所、日本人として乗り切れないような境地を自分としては乗り切れなければ、日本を復帰させることはできない。先生も闘ってきたんだよ。」(1971.3.21)

③「頭振って良い所へ見物に行ったり、今日みたいに見物に行ったりしなかったよ。だから富士山にも行かないし、熱海にも行かないし、箱根へも行かない。日光へも行かなかった。神が願う見たい所の基準を神が見て喜んでから、『ああ、君行ってみな、良いから』。それから行く、それが先生の主義だよ。」(1965.10.8)

(6)最高と最低の生活の体験と研究
 人類の真の父母となるためには、最高と最低のあらゆる生活の体験と研究が必要でした。

1. 御 言

①「日本の貧民窟へも行ったんだよ。品川の裏町とかね。布団ひとつで三人四人も寝ておる。それにはシラミがたかっておる。そういうところで、すました顔でもって足を入れて寝る。気持ちはどうだ。昨日は天下の最高の王、今日は悲惨なる貧乏の洞窟。シラミと友達になるというような境地。かみつきおったら、これをかくんだね。そのかく面白さ。笑うんじゃないよ。面白いもんだよ。それは劇的である。詩的である。その中に生まれてその中で死んでいく者は、劇的か詩的かわからないんだけれども。そういう立場から見る面白さ。その価値たるものは、その立場から生きる者はわからないほど価値がある。」(1971.3.21)

②「先生は品川の貧民街を、総なめしたことがあります。そのようなことが先生に、非常に優れた価値観を形成させたのです。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.230)

③「品川に、今もあると思うんだがね、品川駅をずーっと過ぎて行くと、道がこうなって丘があるんだね。丘があって、そして鉄道があるから、こっちから渡る橋がある。ずーっとそこに大山とか何とかいう山がある。そこに多く行ってね、祈ったことがある。時間があれば、ああいうところを回ってみたいんだけど、時間がないんだね。東京と言えば、虎ノ門のところあるでしょう、あの宮城の近くに。あそこの地形は忘れられない。あのころのことを今、思い出すんだね。学生としてでないよ。あらゆる社会の状況下に、荒波の中に潜りながら、御旨に生きる者としての価値の境地をいかに打開するか、その責任を持ちながら、いろいろ先生として対決してきたところだ。」(1967.6.19)

▲品川にあった貧しい家

④「自分の過去のことを、自分のことを言わないというと真剣にならないんだよ。自分のことと事実のことを言わないと真剣にならない。真剣にならないと相手も真剣にならない。聞くことも真剣にならない。これは事実だ。真理だ。…かわいそうな時、乞食みたいな、乞食、よーく通じるよ。この時にこうだろう。寒い時、寒い時にはもう、夜明けになったら、新聞の一枚が絹の布団より以上のその価値があることをしみじみ感じるだろう。」(1965.10.3)

⑤「山谷周辺の貧民街まで、先生の行かなかった所がないくらいです。」(1978.9.21)

⑥「君たちのその年齢の時、日本に来ておったんだけれどね。新宿の裏町やらずーっと裏町の所いろいろ回ったんだよ。酒屋の路地に入って行ってその女たちのその過去をずーっと尋ねてみるんだね。『なぜこんな所へ来たか』。それで…酒は飲まない。ビール持って来い。いい気になって持ってくる。それでもう横に座ってようやるんだね。それでずっと顔を見て『君はこういう父母がないんだね』、『お母さん、ないじゃないか』言いながら。いい気になって『そうですよ』と、でっかい声を上げて言うんだよ。そしてずっとそれ研究するんだよ。…だからどこへ行っても自分のためのものを取って来るんだね。悪の所へ行っても消化するものは消化する。先生はそういう主義だ。」(1965.10.3)

⑦「そのような場で、彼女の父母以上に悲しみ、彼女の兄さん以上に痛哭(つうこく)できる心情をどのように誘発させるかを考えました。そのようにしなければならないというのです。街頭の女性たちに対して、訪ねていって悪いことをするのではなく、事情を聞いて、そのような女性をどのように解放するかと、涙の同志になることができる道を探してさまよった、そのような男でした。

▲夜の新宿街

 また、娼婦の巣窟に入っていき、彼女らを悪の巣窟から引き出してやることもしました。ありとあらゆる誤解を受けながらも、そのようなことをしました。このような階層にいる人たちを、先生は心配しなければならないので、そのような複雑な役事がなされたのです。先生は、本当に彼らのために生きたのです。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.231〜232)

⑧「学者はどうであり、労働者はどうであると、全部実地調査するために、先生は路地裏の道を、たくさん歩いたのです。全部密使のように行ってきたというのです。だからといって、犯罪を犯すのではありません。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.211)

⑨「東京に来て勉強していた時、東京を随分回った。回っていないところはない。将来の計画があったからである。『今から何年か後には日本において若者が立つ…』と。君たちを先頭に立てて、そこを引っ張り回りたいのだけど、もう時間がない。」(1965.9.29)

⑩「ある時には、千葉の所に行ったね。」(1967.6.23)

⑪「方々で先生がそのところへ行って涙を流して、大きなその杉の木と抱き合って泣いた所もあるんですよ。」(1965.10.8)

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 次回(11月6日)は「日本留学時代⑤」をお届けします。


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