愛の知恵袋 135
アフガンの光─中村 哲(中)

(APTF『真の家庭』256号[2020年2月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

大旱魃(かんばつ)との壮絶な戦い

 2000年春、中央アジア全体が未曽有の大旱魃に襲われた。被害はアフガニスタンが最も深刻で、食糧生産は半分以下に落ち込み、家畜の90%が死滅した。5月、WHO(世界保健機関)は全人口の半分以上、1200万人が被災し、うち400万人が飢餓線上、100万人は餓死線上にいると警鐘をならし、各国に援助を要請した。そんな時でも、診療所の周辺では、タリバン軍と反タリバン軍が一進一退の攻防を続けていた。

 農民たちは次々に村を捨て、一部はカブールなど都市部のスラムの流民となり、100万人以上が災害難民として国境を越えた。そのため、放棄された農地の沙漠化が更に進んだ。

 この頃から、診療所の前には幼児を抱いた若い母親が列をなすようになった。旱魃の犠牲者の多くは幼児である。「餓死」とはいうが、空腹で死ぬのではない。食べ物不足で栄養失調になって抵抗力が落ちる。そこに汚い水を飲んで下痢症などの腸管感染症にかかって死ぬのである。

 死にかけた我が子を抱いて、何日も歩いて診療所にたどりついたが、列をなして待つ間に息絶えてしまった子を胸にかかえ、途方に暮れる母親の姿を見るのはあまりにつらかった。実際のところ、病気のほとんどは、十分な食料と清潔な水さえあれば防げるものだった。

「命の水」を探し出せ!

 この状況を目の当たりにした中村は、「もはや、病気診療どころではない!」と一大決心をした。2000年7月、診療所は率先して清潔な飲料水の確保に乗り出したのである。

 8月、ジャララバードに「PMS水源対策事務所」を設け、ナンガラハル州全体の渇水地帯で本格的な「井戸掘り事業」を開始した。そこでは、PMS病院で働いていた蓮岡、目黒らの日本人青年が先頭に立った。

 農業もできず飲む水もない絶望的な状態に陥っていた人々は、タリバン、反タリバンを問わず、この井戸掘り作業には協力してくれた。

 井戸は現地に昔からあったのだが、涸れて水が出ないのである。さらに深く掘ればよいのだが、現地では20メートルも掘らぬうちに巨石の重なる地層にぶつかる。ツルハシでは全く歯が立たなかったのである。

 様々な試行錯誤の末、結局、削岩機で巨石に穴をあけ、爆薬を詰めて粉砕することにした。農民の中には爆薬に詳しい元ゲリラ兵もいた。彼らの協力も得て、ロケット砲や地雷の不発弾を見つけては分解し中から火薬を取り出して、それを爆薬に利用したのである。

 こうして、井戸掘りの挑戦は、日本人青年が地元の職員数十名を率いて、どんどん作業地を拡大していった。10月までに274か所、翌2001年9月までには660か所におよび、日本の井戸掘り技術も応用して、その9割以上で水を出すことに成功した。

 この作業は、米国のアフガン報復爆撃のさなかにも続けられ、2004年には1000か所を超え、最終的に2006年までに1600か所に達して、数十か村の人々が清潔な飲み水を手に入れることができたのである。

農業の命=灌漑用水を確保せよ

 しかし、清潔な飲み水は手に入ったが、それだけでは生きていけない。食糧が必要である。アフガニスタンは人口の8割以上が自給自足の農民である。旱魃によって農業ができないことは致命傷であった。仕方なく現金収入を得るために出稼ぎに行ったり、傭兵になる者が多かった。

 そこで、中村たちは、元来のアフガン農村の復活こそが“命”と“平和”の基礎だと考え、放置されて沙漠化した田畑を回復させるために、灌漑用水を獲得する闘いを開始した。

 まずは、現地の伝統的な灌漑用水路「カレーズ」の復旧を手掛けて、40本のうち38本を再生させた。すると、水の恵みと威力は絶大で、瞬く間に診療所周辺の田畑が復活し、約100の家族が村に戻ってきて農業を始めた。

 さらに、カレーズだけでは限界があるので、新たに直径5メートルの大きな灌漑用井戸を掘った。その水をくみ上げて周辺の畑に流すのである。これによって、さらに数十町歩が緑化でき、帰農する村人が増えてきた。(続く)

参考文献:『天、共に在り─アフガニスタン三十年の闘い』中村哲著・NHK出版

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