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スマホで立ち読み Vol.4
『ダーウィニズムを超えて』(4)

 もう一度皆さまにぜひ読んでいただきたい、編集部イチオシ!なコンテンツをご紹介。
 統一思想研究院が贈る『ダーウィニズムを超えて~科学の統一をめざして』をお届けします。
 ダーウィンの『種の起源』発表から約150年。「進化論」は生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきました。本書は進化論を批判するとともに、「新創造論」としての新たな見地を提言しています。

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大谷 明史・著

(光言社刊『ダーウィニズムを超えて~科学の統一をめざして』より)

第一章 進化論を超えて
(一)生物に目的はあるか②

 ダーウィンによれば、適者生存の原理、すなわち生命力の強いもの、生存に適したものが生き残り、繁殖し、進化したという。そうであるならば、この世界は、生命力と繁殖力の強い昆虫や雑草が支配するような世界になったはずである。しかし、生物を観察してみると、そのような原理だけで生物は存在しているのではないことがわかる。生存に適しているというのは、生物の存在の一つの条件にすぎないのである。

 例えば西瓜(すいか)を考えてみよう。西瓜は夏の暑い時に、水分をたくさん集め、色をつけ、味をつけながら、大きな果実を実らせる。しかし、それは西瓜の生存にとってどんな意味があるのだろうか。西瓜の生存と繁殖のためには、種さえできればよいのである。地に落ちた種は、春を迎えると、雨が降り、気温も上がるから、芽を出して成長していく。したがって果実の中に大量の水分を貯える必要はないし、色や味をつける必要は全くないのである。進化論者は、西瓜が水分を貯え、色をつけ、味をつけるのは、動物に食べられて種をまき散らしてもらうための西瓜の見事な戦術であるというであろう。しかし西瓜が戦術を練るなんてことはありえないことである。西瓜は動物たち、特に人間のために、天然ジュースとして造られていると見るべきである。すなわち、西瓜は生存に適している(個体目的)だけでなく、他のために存在している(全体目的)のである。つまり生物にはそれぞれの創造目的があるのである。

 蝶(ちょう)の世界を見てみよう。蝶の羽の美しさは魅力的であるが、蝶の羽の斑紋の役割に関して、進化論の立場の研究者たちは「天敵を避けるため」と言う。「天敵を避ける」とは、生存に適しているということである。しかし、ファッションショーのように、きらびやかに舞う蝶たちは天敵に襲われやすいのではなかろうか。彼らはまた、きらびやかな蝶の羽は「オスとメスがひき合うため」であると言う。「オスとメスがひき合うため」とは、繁殖に適しているということである。しかし、それだけではない。蝶は、われわれを魅了するために存在しているのである。実際、多くの人たちが蝶に魅せられて、蝶の収集に夢中になっている。

 昆虫の擬態(ぎたい)はどうであろうか。ある昆虫が、植物や他の昆虫に擬態する理由に対して、進化論は自然選択によって解決済みだと主張している。しかし、昆虫が鳥に食べられないように逃げ回っているうちに、微に入り細に入り、かくも見事に変身できるであろうか。まだ本質をつかみ切れていないのではないかと、疑問を抱く昆虫学者も多い。昆虫の擬態に関して次のような記事がある。

 彼らは、だれに見せたくて、こうなったのか。「昆虫の擬態は、モデル、まねる虫、鳥、そして『観察する人間』という四者関係の問題」と池田教授[生物学者池田清彦]。どれほど似ていれば人は驚き、感動するのか。昆虫の擬態の話は、いつの間にか、人間の認識とは何か、というテーマになってくる。(読売新聞、一九九九年六月二八日夕刊)

 ここに「どれほど似ていれば、人は驚き、感動するのか」と言っているように、昆虫の擬態はわれわれを驚かせ、感動させ、喜ばせるように、造られたものであるとみるべきであろう。

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 次回(8月26日)は、「(二)生物はデザインされたものか」をお届けします。


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