愛の知恵袋 126
もう一度、上を見よ

(APTF『真の家庭』247号[2019年5月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

理想に燃えて歩んできたのだが…

 青葉若葉の5月! 風もさわやかな季節です。でも、もしかしたら、心までブルーになっている人もいるかもしれませんね。難関を突破して志望校に入った大学生。この4月から職場に入った新社会人たち。彼らが踏み込んだ先々で、思い描いていたものとは違う現実に直面して陥る、いわゆる“五月病”の季節でもあります。今日の話は、そんなことにも関係するお話です。

 60代の男性Aさんが、「久しぶりに話をしたい」と言って訪ねて来られた時のことです。

 彼はある団体で長い間、社会運動を熱心にやって来たという経歴がありました。若い頃、「人生いかに生きるべきか」「やりがいのある仕事をしたい」ということを真剣に考え、探し求めた末に、遂に「これなら生涯をかける価値がある!」と確信できる道を見出し、以後、その目標を実現するために身も心も投入して、多くの苦労も甘受して来たと言います。

 「しかし、最近になって、ふと気が付くと、毎日、不平や愚痴ばかりを口にして、熱意はおろか、かつての理想すら見失っている自分を見出して愕然としました」と言うのです。

 「なぜ、そうなってしまったのか、考えてみたことがありますか?」

 「もちろん、私も考えてみました。一口で言えば、自分が抱いた“理想”と“現実”とのギャップでしょうか。具体的には、それを実現するための仕事をしていく中で、組織の不条理や人間の醜い姿に躓(つまず)いてしまったような気がします」

 「そうですか。どんなところに失望したんですか?」

 「私の周囲には立派な上司やまじめな仲間たちもたくさんいましたが、中には到底理解できないことをする人もいて、がっかりすることがありました。それに、権威主義、一方的命令、個人や家庭への配慮のなさ、誠意と愛情の感じられない対応…、そういう事に躓き、傷つき、失望するうちに、いつしか熱意が冷めてしまったんだと思います」

「理想」と「現状」のギャップに苦しむ

 政治や経済の活動はもちろんのこと、スポーツや学術の世界、あるいは宗教や社会運動の世界でも共通することがあります。現状を改革し理想の実現を目指す活動には、「かくあるべき」という“理念”は明確にあっても、その理想が大きいほど実現には多くの闘いと長い時間がかかります。そして、その活動を進めていく組織や人間が不完全である限り、“目指す理想”と“現状”には常に大きなギャップが伴います。

 その為、いったんは大きな志を抱いて出発しても、悲願成就までには思いもかけない問題や紆余曲折があり、「所詮、無理な目標だったのではないか」とあきらめてしまったり、あるいは、組織の中で起こる様々な人間トラブルに躓いて、熱意を失ってしまうということも起こります。

 全ての試練をかいくぐって最後まで生き残り、目的を達成するためには、研究と工夫、忍耐と寛容、冷静沈着な判断、打たれても立ち上がる不屈の信念というような多くの要素が必要です。

 歴史を振り返ってみても、大事を成し遂げた人々は、等しくこのような試練を乗り越えてきたのではないでしょうか。だからこそ、偉人たちの生涯を詳しく研究した者は、彼らがたどった苦難の道、そこに隠された痛みと犠牲を知ったとき衝撃を受け、涙を禁じ得ないのです。

上を見て、下を見て、もう一度上を見る

 私はAさんの話を聞きながら、その気持ちが痛いほどわかりました。私自身も同じような悩みを経験したことがあったからです。そこで、彼の話を聞き終わった後、私の場合はどのようにして、それを乗り越えてきたのかということを率直に話しました。

 理想に燃えて出発しても、途中で躓くことや失望することが重なると、「この道は本当に正しいのか? 目標は本当に実現できるのか?」そういった疑問がわくことがあります。

 『組織や人間に躓くことは多々ある。しかし、理念や目標に間違いはない…。けれどもやはり、現状には矛盾や不条理がたくさんある…。しかし、どう考えても理念には間違いはない…』

 そんな堂々巡りの中にある葛藤を、一刀両断、ズバリと解決してくれたのは、私の尊敬する恩師の言葉でした。その言葉によって、私は自分の心情が大きく整理され、抱いてきた信念を再確認することができたのです。それは、次のような言葉でした。

 「上を見て、下を見て、そこで終わってはいけないんだよ。上を見て、下を見て、もう一度上を見るんだよ!」

 「う~ん、………」と言ったまま、しばらく沈黙していたAさん。

 「“上見て、下見て、もう一度上を見る”…ですか」とつぶやいて。

 次の瞬間、はたと手を打って大声で言いました。

 「なるほど、そういう事か! う~ん、なるほど、そういうことですね! 納得です。数年間の悩みが解決できました。自分が人生をかけた目標には間違いはないんですよね! もう一度、初心に帰って、今の自分に何ができるかを考えて、熱意をもってやることにします!」

 彼は打って変わった表情でそう言うと、私の差し出した手を握り締めて、帰って行きました。

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