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氏族伝道の心理学 6
「怨み」と「恨み」

 光言社書籍シリーズで好評だった『氏族伝道の心理学』を再配信でお届けします。
 臨床心理士の大知勇治氏が、心理学の観点から氏族伝道を解き明かします。

大知 勇治・著

(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)

第1章 不安と怒り

「怨み」と「恨み」
 では、「怨み」とは何でしょうか。また、「恨み」と「怨み」の違いはどこにあるのでしょうか。

 日本では一般的に、この二つの「うらみ」を区別なく使っています。しかし、教会員は、この二つの言葉を区別して使います。「恨み」は、「恨(ハン)の心情」と言ったりしますが、「理想や希望が達成されないときの悲しみ、つらさ」を意味します。そして、「恨みを晴らす」ためには、達成されていない理想や希望をその本人自身が達成するか、あるいは本人に代わって、誰かがその理想や希望を達成する必要があります。神様の心情や真(まこと)の父母様の心情、韓民族の歴史的な心情は「恨の心情」であると言われます。真の父母様は、神様の創造理想を完成することによって、神様の恨を解かれたのです。

 それに対して、怨みは、「恨み+怒り」です。「恨み」は悲しみであるために、誰かを責めるということはありませんが、怨みは怒りがあるため、誰かを責めます。「このうらみ、晴らさでおくべきか~」というときには、誰かを不幸にする、呪い殺すということを意味します。これは、「怨み」の中に破壊衝動である怒りがあるためです。

 不安や怒りが、いかに大きな問題であるかが理解していただけたかと思います。ところで、ここで怒りについて、もう少し説明を付け加えておきます。私は先に、「怒りは『破壊衝動』です」と説明します、と述べました。では怒りは、神様と無関係で、堕落によって生まれたものなのでしょうか。「神の喜怒哀楽」という言葉は、「統一原理」にも「統一思想」にも出てきます。この言葉から考えれば、人間は怒りも創造本性として持っていたのではないか、とも考えられます。しかし、かつて大母様は、「天国に行くための条件生活」を十一項目発表しましたが、いろいろある項目の中の一番目に「絶対に怒ってはいけない」を挙げています。果たしてどう考えたらいいのでしょうか。

 怒りは、もともとは本然の自己防御反応であると考えられます。『病んだ心から健康な心への道─怒りのない人生へ』(島野隆著、文芸社)という本の中で、以下のように説明されています。

 「『怒り』は本来、自分よりも強い、もしくは同等の敵と戦って、怪我をしても生き延びるようになるよう、脳から全身に下された命令として生まれたものです。全身の血管が収縮し、血が脳に集められ、胃腸などの代謝機能は停止され、痛覚が麻痺し、臨戦体勢になるわけです」。

 この説明からもわかるように、怒りは創造本然の世界においてもあり、冒険などで大きな自然に立ち向かうときなどに、自分自身を守るために、もともと神様から与えられていた生理的・心理的反応なのだろうと思います。火事場の馬鹿力のような瞬発力を発揮するための心身の状態と言えるでしょう。

 しかし、堕落により、人間は神様から離れてしまったため、いつも情的に満たされないものを抱えるようになりました。また霊肉共に無知に陥り、本来の知恵を使って状況を把握し、問題を乗り越えていくことができなくなりました。さらに、情と知が未熟なため、状況に積極的に向かっていく意欲を失ってしまいました。また環境が悪なるものとなったことにより、様々な不安に脅かされるようになりました。これらの要因が重なって、創造本性としてもっていた心身の機能が、本然の安定したバランスの取れた状態から大きく離れ、コントロールを失った「情の暴走」による破壊衝動になってしまったのだと考えられます。

 創造本然の世界でも、知情意が未熟な子供たちは、怒りをもつことがあったかもしれません。友達同士でけんかしたり、相手を傷つけることもするのかもしれません。しかし、心身の成長の中で、知情意が成熟してくれば、友人とのトラブルも、怒りではなく、相手を思いやったり、合理的な解決方法を見つけたりして対応していけるようになり、怒りをもつ必要がなくなるのでしょう。

 つまり、今もっている私たちの怒りのほとんどは、私たちの知情意の未成熟さと、堕落世界の悪なる環境の中で起こってきているものだと考えられるのです。

 そして、私たちは、自分自身の知情意を成熟させていくために、悪なる環境の中にいるとしても、怒りをもって対するのではなく、愛することによって越えていく努力が必要だということです。

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 次回は「不安と怒りの構造」をお届けします。


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