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心のあり方 41
李方子さんの生涯
「私の祖国は2つあります」

 アプリで読む光言社書籍シリーズ第11弾、『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ~心のあり方』を毎週木曜日配信(予定)でお届けしています。
 なお、この記事に記載されている「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は創芸社出版のものです。

浅川 勇男・著

(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ~心のあり方』より)

第十一章 世界が一つになって平和に暮らす

李方子(リ まさこ)さんの生涯

 朝鮮半島の統一に関心をもつこと、韓国への心の壁をなくすこと、それはとても貴重なことです。歴史的に、日本人こそ、最も、朝鮮半島統一に、貢献すべきなのです。

 皇族でありながら、韓国のために尽力した日本女性がいました。李方子さんです。李方子さんは、一九〇一年(明治34年)に皇族梨本宮家にお生まれになりました。宿命的な韓国との関わりは十五歳のときに始まりました。新聞の見出しを見て驚いたのです。

 「李王世子の御慶事、梨本宮方子女王と御婚約」

 李王世子とは、朝鮮王朝最後の皇帝、純宗(スンヂョン)の弟君で、李垠(リぎん)、という方です。この瞬間から日本と韓国、朝鮮との“愛の架け橋”となる生涯が始まり、韓日国際結婚の先駆けとなったのです。

 「2学期の最初の登校日、方子は着慣れた銘仙とえび茶色の袴で学習院の門をくぐった。しかし、その髪は中心から分けて横に梳(す)き流す韓国式に結われていた。

 彼女を待っていたのは祝福の言葉だけではない。早くに婚約が整った者への羨望や、『皇太子妃といっても朝鮮の方では……』という蔑む声もあった。その中へ韓国式に髪を結い、昂然と登校して来た方子の覚悟に、見つめる学友たちは圧倒され感心したという」(『世界が愛した日本』四條たか子著、竹書房、171ページ)

 結婚した二人には大きな困難を越えていかなければなりませんでした。日本の朝鮮統治、太平洋戦争、日本の敗戦と朝鮮半島の解放、政治的混乱と南北分断、未曾有の歴史的混乱の時代を、夫婦で生き抜いたのです。

 夫婦がようやく韓国に定着できたのは、一九六三年のことでした。夫、李垠さんにとって実に、五十六年ぶりの還故国でした。

 しかし、既に六十六歳、病気でベッドに伏す人となって、一九七〇年に亡くなられました。夫の生前中、夫婦で誓い合ったことがありました。韓国の恵まれない子供たちを支援することです。

 李方子さんは、残りの人生を韓国の子供たちのために燃焼させました。

 「これからの残りの人生を、韓国の社会が少しでも明るく、不幸な人がひとりでも多く救われることを祈りつつ、一韓国人として悔いなく生きてゆきたいと願っております」(同193ページ)

 一九八九(平成元)年「4月30日に永眠した方子の葬儀は5月8日、準国葬並みの扱いで、李王朝の礼式にのっとって行われた。日本の天皇皇后両陛下から届けられた弔花や、昭和天皇の弟君である三笠宮崇仁(たかひと)殿下、百合子妃らに見送られた方子の棺は、南揚州市金谷洞(クムゴクトン)に眠る夫・李垠の隣に運ばれた」(同166ページ)

 「日韓の架け橋として生涯を過ごした彼女の言葉通り、漆塗りの棺が御陵に降ろされた。

 すると、それまでこらえていた天から突然泣き出したかのような雷鳴がとどろき、激しい雨が降り出した。篠つく雨の中で棺に土がかけられ、御陵が元通りの姿を取り戻すと、雨はぴたりと止んだ」(同167ページ)

 李方子さんの功績を福祉事業を携わってきた人はこう評しています。

 「第一に60年代には誰もやっていなかった身体障害者福祉を始めたこと。第二に日本の皇族出身者でありながら率先して奉仕活動をしたことで、韓国民の日本女性に対するイメージをよくし、日韓関係を和らげる役割を果たしたこと……」(同196ページ)

 方子さんは生前中、こう語られたといいます。

 「私の祖国は2つあります。ひとつは生まれ育った国。もうひとつは骨を埋める国」(同167ページ)

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 次回は、「愛の架け橋となる結婚」をお届けします。


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