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心のあり方 43
自然との交感を楽しむ人

 アプリで読む光言社書籍シリーズ第11弾、『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ~心のあり方』を毎週木曜日配信(予定)でお届けしています。
 なお、この記事に記載されている「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は創芸社出版のものです。

浅川 勇男・著

(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ~心のあり方』より)

第十二章 一つの岩、一瞬の風にも神様の息遣いが隠れている

自然との交感を楽しむ人

 人は誰でも幸福を求めて生きています。そのため、時として仕事や家事の忙しさから解放されて自然を満喫しようとします。心の疲れを解きほぐそうとします。自然を観光しに行きます。観光は、“光を観る”と書きます。文字どおり、人生の「光」を「観る」ために行くのです。日本には、たくさんの素晴らしい観光地があります。北海道の大自然、箱根、芦ノ湖、富士山、そして、九州の雄大な阿蘇山。

 では、有数の大自然でしか、光を観ることはできないのでしょうか。観光地に行っても、必ず、家に帰らなければなりません。翌日から、仕事と家事が待っています。もし、大自然の観光しか、心を解放することができないならば、人生のほんの一時しか、幸福を満喫できません。富士山の山頂に庵を立てて住むわけにはいかないのです。

 しかし、ご安心ください。文鮮明(ムン ソンミョン)先生は、「全て」の自然との触れ合いが、人間を幸福に導くと言われます。観光地の素晴らしい大自然だけではなく、全ての自然と言われるのです。

 観光地が箱根だったとします。東京から車や電車に乗って箱根に行きます。箱根で山や湖を観光して、心が安らぎます。温泉につかって体をリフレッシュさせます。そして、再び帰ります。疲れているので、寝てしまいます。(運転手は起きています)

 では、箱根に行く途中に、自然は全くなかったのでしょうか。そんなことはありません。自然だらけです。道路脇には雑草が生い茂っていました。花も咲いていました。遠くに山がそびえていました。そして、空があり、白い雲がたなびいていたのです。鳥も飛んでいました。自然の中を通って箱根に着き、自然の中を通って自宅に帰ったのです。

 でも、途中では、感動しませんでした。どうして、有名な箱根を観光して、途中の自然は観光できなかったのでしょうか? 自然に貴賤(きせん)、上下があるのでしょうか。交通費のかかる箱根の自然は尊くて、無料で見れる雑草は卑しいのでしょうか。毎日、会社や学校に行く途中で足元に咲いている花や雑草は、見る価値がないのでしょうか。

 そうではありません。全ての自然万物には尊い価値があるのです。「光を観る」ことができるのです。もしも、私たちがそのように感じられれば、毎日、観光地で生活していることになります。歩くだけで、幸福を満喫できるのです。無料です。では、どうしたら、そんなお得なことができるのでしょうか。

 それが、「一つの岩、一瞬の風にも神様の息遣いが隠れている」ことを感じ取る心、なのです。自然万物に神様の愛を感じる心が、なければならないのです。それができる人を、「自然との交感を楽しめる人」(自叙伝52ページ)だと言われます。人間に幸福をもたらすのは、すべての自然に神様の愛を感じる心なのです。

 文鮮明先生は、道端に咲く雑草やタンポポが、世界的名画や歴史的展示物より尊いのだと言われます。

 「神様がつくられたすべての存在を愛の対象として感じなければなりません。博物館にある一つの作品がいくら立派だとしても、生きている神様の作品には及びません。道端に咲く一輪のタンポポが新羅(古代朝鮮半島の国家)の金の冠より貴いのです」(自叙伝316ページ)

 「門前の、何の価値もなく立っているように見える一本の木を見ても、世界の名作、画家が描いたどのような絵とも比較できません。

 いくら絵を眺めても、そこに花が咲きますか? 香りがありますか? ないのです。

 ところが、木からは種が生み出されるのです。その種を植えれば、その木よりも素晴らしい木がいくらでも出てくるのです」(『天運を呼ぶ生活』168─169ページ)

 世界的画家の一人に、ゴッホがいます。有名な「ひまわり」を描きました。おそらく、時価で、何十億でしょう。展示会があれば、美術愛好家たちは美術館に殺到します。自動車、電車に乗って、入場料を払って鑑賞します。ある、ゴッホの絵に魅せられた人がいたとします。

 夏の季節でした。車で三時間かけて、美術館に来て、「ひまわり」を見て感動して、車で帰ったとします。

 この人が価値を認め感動したのは、ゴッホの「ひまわり」の絵でした。ところが、その道筋には、ひまわりがたくさん咲いていたのですが、全く気づきませんでした。本物のひまわりには感動しなかったのです。

 では、絵画の「ひまわり」に価値があって、道端の「ひまわり」には全く価値がないのでしょうか。

 文鮮明先生は、道端に咲いている「ひまわり」が、ゴッホの「ひまわり」より、価値がある、と言われるのです。なぜなら、いのちがあって、香りがあり、繁殖するからだと、いわれます。絵画の「ひまわり」はどんなに見事であったとしても、香りを発散しません、たくさん増える、ということもありません。美術館が、ひまわり、だらけになります。

 道筋の「ひまわり」は神様の作品そのもので、人の手をかけていません。道端こそ自然の大美術館で、「ひまわり」が神様の手で展示してあるのです。もし、心の門が開けば、道端の、ひまわり、に神様の光を、観ることができるのです。すべての自然に神様の愛を感じる人を、「自然との交感を楽しむ人」というのです。

 「自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。……自然も、人も愛せない人は、神を愛することができません」(自叙伝52ページ)

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【み言訓読タイム⑫】
*自叙伝「平和を愛する世界人」より

 私たちの周りに存在するすべてのものは、想像もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。また、その力は密接に連関して相互につながっています。大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。(自叙伝51ページ)

 自然を大切にして保護する近道は、自然を愛する心を持つことです。道を歩いていて一株の草を見ても、涙を流すことができなければなりません。一本の木を抱きかかえて泣くことができなければなりません。一つの岩、一瞬の風にも、神様の息遣いが隠れていることを知らなければならないのです。自然を大切にして愛することは、神様を愛することと同じです。神様がつくられたすべての存在を愛の対象として感じなければなりません。博物館にある一つの作品がいくら立派だとしても、生きている神様の作品には及びません。道端に咲く一輪のタンポポが新羅の金の冠より貴いのです。(自叙伝316ページ)

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 次回は、「自然は神様の贈り物」をお届けします。


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