信仰と「哲学」41
関係性の哲学~信仰と哲学の調和を求めたハイデガー

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 ハイデガーは、人間を「現存在」と表現しました。
 人間を「人間」と表現しなかったのは、すでに述べたように、「人間」というと、この人もあの人も皆、「人間」ということでは同じになってしまうからです。

 人間が生きるにおいて本質的なことは、「私」と「あなた」、「彼」と「彼女」がそれぞれに違う存在であるということ。それぞれが「自分だけ」の現実と相対しており、その現実に対応することができるのは、私以外にはないということなのです。

 「私」といえばいいのでは、との考えもあると思いますが、「私」を他人ではない「私」たらしめているのは何かといえば、自分固有の現実的状況に直面しているということであり、その中で自分の在り方を選び取っていくということ、その繰り返しが「私らしさ」を形作っていくのではないかという点にあります。

 それ故、単に「私」と表現すれば、あたかも「私」という実体がすでに存在しているかのようです。そこには、今説明した経緯が抜け落ちてしまうのです。

 このような理由から、何よりも私たちがそれぞれ自分固有の「現場」を持っている点を強調したかったのです。それで「現存在」と表現したのです。

 そしてハイデガーは、現存在としての人間の「本来的生き方」「非本来性的生き方」にこだわりました。しかし、「本来的な生き方」とか「非本来的な生き方」といった考え方や決め付けは、他人の生き方に対する余計な介入になるのではと考え、拒否反応を示す人も多くいます。それでハイデガーの専門家でも、「本来性」を外して解釈する人も多いといわれているのです。

 ところでハイデガーは、非本来的生き方をしている人を「ヒト」あるいは「世人」と表現しました。「ヒト」がそうしているから、「みんな」がそうしているからという、大衆の「右に倣え」的な生き方をしている状態を指します。

 実は、ハイデガーのいう「本来性」には神に従った敬虔(けいけん)な在り方、「非本来性」には神に背いて「原罪」にとらわれた生き方という根源的なイメージがありました。宗教的概念を使わずに、一人の人間としての「正しい」在り方がどのようにとらえられるかを示そうとしました。

 信仰と哲学の調和を目指す考えがあったのです。

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