コラム・週刊Blessed Life 87
「自分の主人は自分の良心である」

新海 一朗(コラムニスト)

 一般的に、自分の主人は自分が仕えている上司であるといった考え方をする人が少なからずいることでしょう。

 いや、そうではない。自分の主人は自分であるという人もいるかもしれません。

 あくまでも自分が主体であって、会社の上司などではないという気持ちから自分を主体にするわけです。しかし、その場合、主体に立てた自分とは何ぞやということを明らかにする必要があります。

 冷静になってよく考えてみると、自分の主人は会社の上司のようであり、自分自身のようでもあり、あるいは信仰の篤い人であれば、自分の主人は神であると言い出すかもしれませんが、きっぱりと「自分の主人は自分の良心である」と言い切ってしまいましょう。

 なぜ、そう言えるのか。
 本来あるべき自分自身の姿を「良心」は知っているからです。

 私はどのように生きるべきか。誰に尋ねたらよいか迷ったとき、自分の良心に聞くことが最良の解決法であると言えます。

 「誰に聞いてもしっくりこない、一体、答えはどこにあるのだ」というようなとき、自分の良心に聞くのです。
 良心の声が最も「しっくり感」のある答えであるはずです。

 良心を苦しめることはしない。良心を悲しませることはしない。良心絶対主義で生きる。そのように決意しても差し支えありません。

 現代、日本も世界も、ほとんどの人々が自分の良心を破壊して生きています。
 これは大変なことです。自分自身を導いてくれる羅針盤を壊してしまっているのです。本当の自分自身を打ち壊しながら生きているという凄惨(せいさん)な姿、それが愛のない闘争世界です。

 良心に背いて生きるのは、自己破壊です。苦痛しかありません。現代社会、全人類の姿は良心破壊であり、そこから来る社会混乱、人々の対立闘争の姿です。

 私たちに与えられた限りある人生を有意義に生きる道は、もし自らの良心に問うならば、「私はどれだけ多くの人に愛を与えたか」という答えが返ってくるに違いありません。
 「愛する人生を歩んだかどうか、ここに人生の勝敗がかかっている」と。

 なぜ、そういうふうに言えるのか。
 自分一人では幸福になることができないからです。

 全ては人との関係から始まるのです。愛も幸福も平和も理想も全て人との関係から始まります。必ず相手(相対圏)がいなければなりません。その相手は私よりも大切な存在であると見るべきです。その相手によって、愛が生まれ、幸福がもたらされ、平和が築かれ、理想が実現されていくからです。

 自分が中心であるという独りよがりの考えから、愛が生まれることはありません。相手あってのことであり、良心はそのことをよく知っているので、愛される前に、まず自分が相手に尽くし、相手を愛しなさいというのです。

 罪は個人を優先するときに生じます。
 個人の欲心・欲望が隣人に被害を与え、社会を滅ぼすのです。

 良心が躊躇(ちゅうちょ)するようなことをしてはなりません。良心に引っ掛かることをすれば心に影が残ります。

 「罪を犯さず、影のない人生を生きよ。与える愛を中心として人生を堂々と生きよ」というのが良心の揺るぎない指示であります。