夫婦愛を育む 85
本音が言えるまで

ナビゲーター:橘 幸世

 私が勤めていた地元の県立高校では、年2回、生徒が先生を評価します。各教師の授業に対して、生徒が無記名で自由に思うところを書いて提出するのです。提出されたものは対象の先生本人以外は見ることはなく、あくまで授業向上のためです。
 とはいえ、神経の細い先生にはかなりのストレスなのではと想像します(幸い〈?〉非常勤講師である私はその“審判”の対象外でした)。

 職員室でその話題になった時、あるベテランの先生がこう言いました。
 「私はそんなもの見ませんよ。無記名なんて、無責任に書き放題じゃないですか。自分の分を渡されたらシュレッダーしちゃいます」

 その大胆さに唖然(あぜん)とすると同時に、ある意味そんな性格をうらやましいと感じたのも事実です。
 見ずにシュレッダーするだけでも思い切りが要りますが、さらにそれを公言できる。人がどう思っているかなど気にせずに、自分の信じるところに従って生きている。そんなふうにスッキリ割り切れたら、楽だろうなぁと思いました。

 けれど、いくらうらやましがっても同様の性格にすぐ変えられるはずもなく、心配性の私などは、生徒が自分の授業を喜んでいてくれるかは、やはり気になりました。それでも、そんな姿勢もありだな、と生の実例を見るだけで少し気が楽になった感があります。

 こんな先生は少数派で、大多数の人は本音を胸に収めて、環境に合わせていることでしょう。近しい人にも本音を言えずにいる人も珍しくありません。近しいからこそ、大切な人だからこそ、言えないこともあるものです。

 育った境遇や性格によって、率直に物が言える度合いは千差万別です。それが苦手な人で、もし本音を言えない自分を否定したり責めたりすることがあれば、それはやめましょう。本音を言わずにずっと生きてきた人は、言わない方がある意味居心地よく安心できていたのです。長い間慣れた世界から抜け出すには、勇気が要ります。

 抜け出すエネルギーが自分の中に十分にない時は、外からもらえばいいのです。言える相手、言える環境に出会えるのを待ちましょう。自分の思いを開けっぴろげに何でも話す人を見つけたら、その人のそばにいてみるのもいいかもしれません。自分とは真反対の世界に自分を置いてみると、新しい感情が湧いてくるかもしれません。少しずつでいいのです。

 そんな出会いがあるまでは、神様に自分の思いを打ち明け続けましょう。神様は子供(人間)の本音を聞きたいですし、責めません。神様に話し掛け続けていく中で、何かが開けていくことでしょう。