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氏族伝道の心理学 22
創造本性と堕落性

 アプリで読む光言社書籍シリーズ第9弾、『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。

大知 勇治・著

(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)

第3章 氏族的メシヤ勝利と心の問題解決

創造本性と堕落性
 私たちは、「○○さんの性格」という言い方をします。私の性格、夫の性格、子供の性格、教会長様の性格、などです。例えば、「うちの夫は性格が明るくて、子供とよく遊んでくれるけど、ちょっと短気なのよねぇ」というような言い方です。私たちが誰かの性格について話すときは、通常、「創造本性」と「堕落性」を混ぜこぜにしています。先ほどの例で言えば、「明るくて、子供とよく遊んでくれる」というのは創造本性かもしれません。一方、「ちょっと短気」というのは堕落性でしょう。このように、私たちが人の性格について考えるときには、ほとんどの場合、創造本性と堕落性を区別して考えることをしていません。ここに問題があるように感じます。

 私たちが日々実践しようとしている信仰の道は、真(まこと)の愛の人格の完成を目指す道です。完成人間になるために、信仰生活をしているのです。信仰生活の目標は、完成人間、「神の宮」になることです。そして、完成人間になったとき、信仰は必要なくなります。では、完成した人間とは、どのような人なのでしょうか。それは、堕落性が全くない、創造本性だけの存在です。つまり、堕落性を脱いでいくための生活が信仰生活なのです。

 散らかって汚れている部屋をきれいにしようとしたら、まず何をしなくてはならないでしょうか。それは、捨てるべきごみと、残しておくべきものを区別することです。捨てるものと残しておくものをきちんと区別できなければ、物を捨てることができません。汚いものやいらないものを捨てられなければ、部屋をきれいにすることはできません。つまり、分別が必要だということです。

 心の中も同じです。きれいな人間(完成人間)になるためには、心の中の捨てるべきごみ(堕落性)と残しておくべきもの(創造本性)をきちんと区別しなければなりません。そうでないと、いつまでたってもごみを捨てることができず、きれいになることはできないのです。ですから、最初に挙げた例で言えば、性格という言葉でひとまとめにしてしまうのではなく、「うちの夫の創造本性は明るくて、子供とよく遊んでくれるけど、堕落性は、ちょっと短気なことなのよね」と考えなければならないということです。このように考えていけば、完成した夫の姿が見えてきます。これがつまり、創造本性と堕落性の分別ということです。

 夫と闘う、妻を愛せない、そうした相談も少なくありません。なかには、離婚したい、と言ってくる方もいます。特に国際家庭の場合には、文化の違いもあり、離婚したいという気持ちになるのも無理はないと思ってしまうケースもあります。そうした相談の際には、まず次のようにお話しします。

 「私たちは人間である以上、必ず天国に入らなくてはなりません。すべての人が救われなければ、神様と真の父母様の心情が安らぐことはないのですから、天国に入ることは、神様と真の父母様の子女である私たち人間の義務なのです。天国に入るためには、必ず男女のペアでなければなりません。そうすると、あなたが天国に入るためには、必ずあなたの主体者である男性が必要なのです。天国に入る際には、誰もが絶対善霊になっているわけですから、あなたの主体者である男性も絶対善霊になっています。つまり、堕落性を全くもっていない創造本性だけの人間ということです。

 現在、この地上にはたくさんの男性がいますが、真の家庭以外に完成している人はいません。ということは、絶対善霊になったあなたの主体者は、真の家庭を除いて、この世にいるどんなに素敵で魅力的な男性よりも、もっと素晴らしく魅力的な方になっています。今のご主人様は、とても大変な方で、離婚したくなる気持ちもわかりますが、もし今のご主人様と離婚せずに霊界に行って絶対善霊になったのならば、あなたのご主人様はこの世のどんなに素敵で魅力的な人よりも、素晴らしい人になっているでしょう。

 ところで、あなたは、天国に入る時に、絶対善霊となった今のご主人様と一緒に天国に入りたいですか、それとも他の男性と一緒に天国に入りたいですか?」。

 このように聞いていけば、九割以上の人は、「今の夫と一緒に天国に行きたい」と答えます。現状の嫌な夫の姿しかイメージできないので、離婚したいと思うのです。今は嫌な夫であっても、絶対善霊になって素晴らしい男性になると思えれば、今の悲惨な状況を乗り越えていこうという力が出てきます。

 ただ、誤解しないでいただきたいのは、「だから、頑張って今の生活を続けなさい」ということではありません。状況によっては、一緒に生活を続けていっても、必ずしも良いとは言えません。むしろ、一時的に離れて暮らすことが必要な場合もあります。無理をしても長続きはしません。長期的な視点に立って、きちんと対応を考えることは必要です。ただ、離れて暮らすとしても、それは離婚に結びつくような離別ではなく、将来必ず一緒に暮らして幸せになるために、お互いの生活を立て直すための一時的な別居です。私は、こうした別居のことを「戦略的撤退」と呼んでいます。頑張って無理して生活を続けて、消耗しきってしまい、敗走するより他に方法がなくなるよりは、将来の勝利のために、一旦は戦略的に撤退し、態勢を立て直して、再度安定した生活をつくっていこうという考え方です。

 話がずれてしまいましたが、まず私たちがしなくてはならないことは、何でしょうか。自分自身の中の創造本性と堕落性をきちんと区別していくことです。そして、次にすべきことは、自らの堕落性を捨てて、創造本性を伸ばしていくことです。そうすれば、完成人間になれます。

 こう言ってしまうと簡単ですが、実際には、そう簡単にはいきません。まず、多くの人が、「あまりにも自分自身の中で、創造本性と堕落性がごちゃごちゃになっているので、区別がつきません」と言います。悲しいことですが、「統一原理」を学んでも、実際の堕落人間は、あまりにも堕落性にまみれているので、自分自身の創造本性と堕落性の区別がつかなくなってしまっています。

 では、簡単なことから始めていきましょう。まず、「不安」と「怒り」をなくしましょう。これならシンプルでわかりやすいと思います。もっとシンプルにしましょう。前述の大母様が掲げた「天国に行くための条件生活」の第一項、「絶対に怒ってはいけない」を実行することから始めてみてください。これならば、誰にもわかることですね。

 しかし、理解することは簡単ですが、実行するのは難しいことです。怒りは、どこからともなく湧いてきます。妻の顔を見ると、夫の顔を見ると、子供たちの様子を見ていると、ちょっとしたことで怒りが湧いてきます。

 ちなみに、私は、この成約牧会カウンセリングの内容を、教会員以外の人にも話をしています。大学の授業の中で講義もしましたし、いろいろな企業や教育委員会など、様々なところから講演を頼まれたときも、成約牧会カウンセリングの内容の講演をすることが多くあります。つまり成約牧会カウンセリングの外向けバージョンということです。

 外向けですから、アダムとエバとか、堕落の動機と経路とか、神様や真の父母様の話はしません。心の病や問題の背景には、不安と怒りがあり、それは自己評価の低さに由来し、その背景には自尊感情のあり方の問題があること、そして自尊感情の低さは親子関係に由来していること、などです。そして、教会員の方に言うのと同じように、「怒らないようにしましょう」と伝えます。成約牧会カウンセリングの心の構造についての説明は、教会員でなくても理解できます。自分の情の構造を見れば、そのようになっているからです。しかし、「怒らない」というのは、やはり難しいことです。ある学生は、次のように言いました。「怒りはなくならないと思います。怒りは本能だと思います」。

 怒りが本能である、という考え方は、心理学の中にある考え方です。そしてこうした考え方は、一概に間違っているとは言えません。

 『原理講論』には、次のように書かれています。「天使が神に反逆して、エバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性稟(せいひん)を、エバはそのまま継承したのであり、こうして天使長の立場に置かれるようになったエバと、再び血統的関係を結んだアダムも、またこの性稟を受け継ぐようになった。そして、この性稟が、堕落人間のすべての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまったのである。これを堕落性本性という」(『原理講論』122ページ)。ご承知のように、これは四つあり、①神と同じ立場に立てない(ねたみ嫌う)、②自己の位置を離れる(不義な感情で自己の分限を離れる)、③主管性を転倒(逆主管)、④犯罪行為の繁殖です。

 このように、堕落人間にとって、堕落性を誘発する「堕落性本性」があり、これは本能と言ってもよいほど、私たちの中に深く根を下ろしています。ですから、堕落人間が堕落性を自分自身で解決することは、極めて難しいのです。

 このように考えていくと、怒りを本能だと言った学生は、あながち間違っているとは言えないのだと思います。

 『原理講論』の「創造原理」に、次のように記されています。

 本来、「人間の心はその作用において知情意の三機能を発揮する。神はどこまでも、人間の心の主体であるので知情意の主体でもある」と。ところが堕落によって知情意は本然の姿を失い、いびつなものになった。そして、堕落人間の生活環境の影響により、世代を重ねることで、ますます打撃を受け続けてきたと考えられます。したがって、正確には、不安や怒りは堕落性自体ではありませんが、密接に関係し影響し合って起こる心の問題として、堕落性同様、私たちが越えていくべき課題ですから、ここでは堕落性と同じように考えていこうと思います。

 創造本性と堕落性を図に描くと次のページ(下記)のようになります。

 堕落人間においては、どんなに修養を積んだとしても、堕落性を脱ぐことは極めて困難です。私たちの中にある究極の不安は、神様から離れてしまったという不安でしょう。哲学で言う実存的不安というのは、こうした神様から離れてしまった、親から離れて孤独になってしまった人類が根源的に抱えている不安のことを言うのだと思います。

 一方、どんなに残虐非道なことをしても、創造本性がなくなることはありません。私たちは神様から創造された存在であり、創造本性は創造の際に神様から与えられたものですから、たとえ堕落することによって神様から遠く離れたとしても、創造本性は必ず私たちの中にあるものです。

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 ところで、図2は、原罪をもっているときに当てはまる内容です。祝福家庭は、真の父母様の祝福により、原罪を清算されました。そして、神様との親子の関係が回復されたのです。ですから、祝福を受けた祝福家庭のメンバーは、二世も含め、図3のようになっているはずです。この図は、祝福を受け、原罪が清算されることにより、堕落性は本性ではなくなり、私たちが神様との関係を回復していく中で、なくしていくことができるものとなっているのです。

 祝福を受けて図3のようになっているとすれば、堕落性に対するエネルギーの供給源はなくなっているはずです。その一方で、私たちは真の父母様からたくさんのみ言(ことば)を頂き、み旨を実践しています。ですから、時間がたてばたつほど、堕落性は自然と立ち枯れるようになり、創造本性はエネルギーをもらって大きくなっていくはずです。そして、最後は、堕落性が消滅して、私たちは創造本性だけの存在、すなわち完成した人間になれるはずです。

 では、現実の祝福家庭の姿は、どのようなものでしょうか。もちろん、時間の経過とともに、堕落性が減少し、完成に向かっている家庭もたくさんあると思います。しかし一方では、時間の経過とともに家庭の中の不安と怒りが増大し、身動きが取れなくなっている祝福家庭もあります。そうした問題を抱える多くの家庭が、家庭を出発した時より現在のほうが問題がひどくなっている、と言います。また、二世による家庭内暴力という例もあります。当然ですが、そうした二世も生まれた時から暴力的だったわけではなく、様々な環境的な要因の中でストレスをため込み、暴力へとつながっていったのです。

 原罪を清算され、サタンとの血統的な因縁がなくなった祝福家庭の中の不安と怒りが、なぜ減少していかないのでしょうか。

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 次回は、「解決のポイント、授受作用の力」をお届けします。


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