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創立60周年記念企画 第1弾
日本統一運動史 1
離国

 日本家庭連合(旧日本統一教会)創立60周年記念企画、第1弾は『日本統一運動史~文鮮明先生夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』を一部抜粋してお届けします。
 創立40周の際に発刊されたこの書籍は、日本における文鮮明・韓鶴子総裁夫妻の貴重な歴史的足跡と、多岐にわたる統一運動の歴史をまとめた一冊です。
 今、改めて読んでおきたい、日本の統一運動の歴史を振り返る連載です。

歴史編纂委員会・編著

(光言社・刊『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』より)

第一章 メシヤとしての準備時代における真の御父様と日本
(1941年から1945年8月15日まで)

 1920年陰暦1月6日(陽暦2月25日)、現在の北朝鮮の平安北道・定州でお生まれになった真の御父様は、1935年4月17日、イエス様との霊的出会いを契機として、その後1945年8月15日までの期間の中で、神様の御旨を知り、その心情に触れ、人類の救済のための理念である原理を解明され、天国実現のための準備に取り組んでいかれました。その極めて重要な期間の1941年4月から1943年10月中旬までの2年半を、真の御父様は日本において過ごされました。

一、 離 国(1941.4)
(1)日本留学許可の獲得
 警察から注視されていた真の御父様は、警察署長に談判して日本留学の許可を得ることができました。

1.  御 言
①「物心ついてからの先生は、大韓民国の日本統治下において、誰よりも愛国者としての道を行かなければなりませんでした。そのためには、日本を知らなければなりませんでした。」(1986.2.14)

②「私は小学校を卒業する時、式場で大雄弁をしました。警察署長、郡守たちを前にして、『日本人はふろしきをまとめて出ていけ』と言いながら、激しく攻撃しました。小学生の時からそうしたのです。そのために捕らわれていき、警察署長に談判した人なのです。『これこれこのようなことが正しくないのに、そのような場合に黙っていられますか』というように。その時からレッテルを貼られたのです。そのようにして、私が日本に行くために校長先生の推薦を受け、渡航証を出して手続きしなければならないために警察署長に会いに行くと、『あっ、これは要注意人物だ』と言うのです。それで争ったことがありました。署長と激しく言い争ったのです。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.186)

③「先生の小学校時代にね、卒業式で祝辞の時間があるんだね。父兄なんかも来て、祝辞をするんだが、先生が最後に上がって訴えたのが今でもわかっている。そこには警察の署長やら軍師やら校長先生やら、あらゆる地方の有志やらみんな集っておる。『その所が私の願う所である』、堂々と上がって行った。『言いたいことがある』と。少年時代の今までの教育に対しての批判と、今までの先生に対する批判とみんなやっちゃう。『どういう先生は、どういう性質がある。どういう歴史のああいう先生はどういう性質で、どういう結果になるんだから、否定しなきゃならない。それからこの時代の責任者は、どういう心を持たなければならない』と時代批判をした。1時間近く……。それが大問題になった。小学校を卒業する生徒がああいうふうになるとは夢にも思わない。そのときからレッテルをつけられたよ。警察の方から、日本に来る時、それが引っかかったね。『思想的に、これ若者としてこりゃ…』。渡航証明書を受けられないや。だから先生若者として一人で談判する、警察の署長に。」(1965.10.8)

(2)「ひかり」で釜山へ(1941.3.31)

1.  御 言
①「3月31日、『ひかり』に乗って釜山まで来る時の先生の心情はいまだに忘れません。それで、オーバーをかぶって『この国を離れて、帰って来る時には必ずこの国を立たせる』と神に祈ったその時が、今にも身にしみる思いがする。そして7時間に近い釜山の埠頭に着くまでオーバーをかぶって涙ながらに祈ったことが昨日みたいに思われます。」(1974.5.12)

②「ソウルから釜山に行く時、『私が日本に行って学んでくることは何か。この国を解放して、育っていく私たちの二世たちが希望に満ちて前進的出世をすることができる道を、自主的独立国家を備えて出世できる道を私が開いてあげなければならない』と思ったのです。このようにして龍山(ヨンサン)駅をたって、昔の漢江(ハンガン)橋を過ぎながら、手すりをつかんで涙を落としたことが、とめどなく涙を流したことが、今も思い出されます。孤児のようなこの民族をおいて出ていく時、外套を引っかぶって、ソウルから釜山まで痛哭(つうこく)しながら行きました。そのとき日本人のおばさんが、汽車の中で泣いている私を見て、『若い人、お父さん、お母さんが亡くなられましたか。そのような悲しみは、人間ならば誰でも遭うことではないですか』と言いました。しかし私の悲しみは、ただ国を愛する心でぎっしり詰まっていたのです。涙が止まらず、目がはれ、鼻と口がはれるくらいに泣いたことが、今でも忘れられません。その涙、天を愛さずにはいられなかったその事情、この民族に植えつけたかった若いころのその哀切な訴えが、この民族の前に必ず残る、ということを先生は知っていました。それが統一を願う若者一人ひとりの胸に、統一を願う男一人ひとりの胸に残ってくれと、先生が願っていたということを皆さんは知らなければなりません。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.187〜188)

▲「ひかり」号

(3)「昌慶丸」で日本へ(1941.4.1)

1. 御 言
①「『昌慶丸』に乗って1時半の船に乗って国を離れるその時の思い、その時の覚悟は、その時の神に対しての『韓国を守ってもらいたい』と祈った、その時のことは、今も忘れない。」(1974.5.12)

②「この民族のためにどれほど涙を流したかといえば、先生はどの愛国者よりももっと多くの涙を流しました。先生が日本留学に出発した1941年4月1日早朝2時に、釜山の埠頭で、韓国を眺めながら祈祷したことが忘れられません。『私は、今祖国を離れるけれども、祖国であるお前をより一層愛し、お前のためにもっと多くの涙を流そう』と約束したのです。釜山から船に乗って日本に行ったのですが、その時、釜山から連絡船に乗りながらとめどもなく涙を流したことが、きのうのことのようです。その時は日帝時代です。かわいそうなこの民族を、誰が束縛から救ってくれるのでしょうか。私は夜を明かして星を眺めながら、この民族の解放の一日のために精誠を込め涙を流しながら、この民族のために神様の前に、『私は今旅立ちますが、帰ってくる時まで、神様、この民族を守っていてください』と祈祷しました。早朝2時40分に出発しましたが、その時の心情を、私は忘れることができません。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.188〜189)

▲「昌慶丸」

▲釜山港

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 次回は、「日本留学時代」をお届けします。


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