親育て子育て 4
いじめと体罰に共通するもの

(APTF『真の家庭』174号[2013年4月]より)

ジャーナリスト 石田 香

暴力で一方的に相手を従わせようとする体罰はいじめに似ている。その解決法は?

暴力で相手を従わせる

 今、問題になっている体罰からいじめを考えてみましょう。いじめと体罰に共通しているのは、暴力によって相手を自分に従わせようとする心性です。かなり根深い問題なので、「暴力の文化」と言ってもいいと思います。

 個人的な体験からお話ししますと、私の一番小さなころの記憶は、母に連れられて母の姉の家に行っている時のものです。家にいるのがつらくなって、逃げていたのだと思います。迎えに来た父が、庭で酒を飲んでいました。3、4歳ころのことで、詳しい事情は分かりませんが、自分が悲しい気分に包まれていたことはよく覚えています。

 柔道の有段者で警官になって戦争に行き、けがをして農業に転じた父は、母に対してよく暴力を振るっていました。そんな時、私はどちらについたらいいのかわからず困ったものです。

 母が家を逃げ出したのは、もう一つ祖母との嫁姑の葛藤がありました。祖母は頭のいい人でしたが、半面、嫁にはきつかったと、父の初婚の女性に聞いたことがあります。私の母は戦後、父と再婚していました。祖母が暴力を振るうことはありませんが、言葉の暴力はありました。私はおばあちゃん子で、そんな時は祖母の側に付いていたことを、大きくなってから反省しました。

 でも、父や祖母の振る舞いは、当時は当たり前で、今も根強く残っています。暴力は人間というか動物の存在の本質にかかわる問題だからです。

近い距離の性と暴力

 犯罪心理学者の小田晋先生の話で印象的に覚えているのは、脳の中で性と暴力をつかさどる神経はごく近くにあるということです。それは、動物のオスたちがメスを獲得するために、激しく闘うことでもよく分かります。子孫を残すという、生き物にとって一番重要な役割を果たすためには、暴力を行使することも必要だったからです。異常犯罪者が性衝動に駆られて罪を犯すことは、よく知られています。

 つまり、性と暴力は人間の動物的な部分で、これを克服することで、人間は進歩、繁栄してきたのです。その手段が、言葉による交流です。言葉によって理解し合い、自分の意思を伝え、場合によっては相手を従わせる。それによって協力関係が生まれ、力ではもっと強い動物が多い中で、人間は集団として発展することができたのです。

 暴力と性の克服は、言語能力の発達と並行しています。何も話せない赤ちゃんが泣いて事情を伝えるのは、一種の暴力です。でも、言葉を獲得していくことで、次第に自分の意思を言葉で伝えることができるようになります。さらに兄弟関係や学校での社会生活を体験して、集団の中での言葉の使い方を覚えていくのです。

 いじめる子は、その瞬間は満足感を得ますが、長続きするものではありません。人間の本性に反することなので、後悔に襲われます。でも、言葉の力がないと、その気持ちを、またいじめで埋め合わせようとします。

共に成長する関係を

 ファストフード会社の社長が若者たちと話し合う番組で面白かったのは、「アルバイトが定着する鍵は、自分が成長していると実感できることだ」と話していたことです。子供も大人も、後ろめたさを伴わないで心底喜べるのは、「成長したな」と思えるときです。誰もが成長したがっているからです。ですから、成長し合える関係を築くことが、家庭においても社会においても重要になります。

 部活の先生が生徒に体罰をしたのも、生徒を成長させたかったからでしょうが、そこに欠けているのは、成長は共になされるものという感覚です。成長は一方的なものではなく、双方向的なものです。「子育ては親育て」と言われるように、子育てを通して親も成長しながら、子供も成長するのです。

 いじめの反対にあるのは、相手を認めることです。気に食わない相手でもどこかいい点を見いだして評価する。それができなければ、表面的な付き合いで済ませる、というのが社会人の知恵でもあります。子供たちは子供社会の中で、葛藤しながら自分なりの振る舞い方を学んでいるのです。

 いじめのない学校づくりの一つに「ピア・サポート」という取り組みがあります。詳しくは別の機会に紹介しますが、生徒同士が助け合う仕組みづくりで、例えば、上級生が下級生のお世話をするなどです。

 人間は肉体的には有限なのに、不思議に永遠を考えることができます。また、有限な脳細胞も、今使われているのはほんの数パーセントにすぎないと言われています。つまり、まだまだ伸びしろがあるから、誰もが成長したいと思っているのです。

 共に成長していると感じられる関係づくりは、家庭をはじめ学校や会社などすべての組織に必要です。もっと言えば、自分の周りにそういう関係を築いているかどうかです。良寛さん(りょうかん:江戸時代後期の僧侶)が幼い子供と無心に遊んでいたように、生身の人間として、誰とでも学び合う関係をつくりたいものです。