信仰と「哲学」21
善について~ソクラテスは定義せず

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 「善とは何か」という問いに答えることは、極めて難しいことです。「心では分かっている」では、説得力がありません。
 では、なぜ世の中は犯罪に満ちているのか、と反論されるでしょう。それは善を行おうとする意志が弱いからだ、と言い返しても、「善とは何か」がはっきり分かっておらず、曖昧模糊(もこ)、漠然としているからだろう、と指摘されるに違いありません。

 私たちは、電車やバスなどで老人に席を譲ることは善なる行為だとか、あの花は美しいなどと言います。しかし、ほとんどの人々は「善とは何か」「美とは何か」までは考えて生活していません。ソクラテスはそれを問うたのです。

▲ソクラテスの像(ウィキペディアより)

 当時賢人といわれた人たち、一人一人に「善とは何か」「美とは何か」「正義とは何か」を質問していきました。しかし納得する答えを得ることはできなかったのです。

 彼がなぜ、このような行動に出たのでしょうか。それはギリシャ随一の神殿、デルフォイ神殿のお告げを耳にしたからです。内容は、「ソクラテスこそがギリシャで一番の賢人である」というものだったのです。

 ところが彼は納得しません。自分は人間にとって一番大切な善、美、正義などについてよく分からない。「無知の知」です。ギリシャには賢人といわれる人々が沢山いるのだから、分かる人がいるはずだと考え、それらの本質を知るために質問しまくったのです。

 うそをつかないことは善でしょう。しかし善の本質はうそをつかないこと、とは言い切れません。うそも方便といわれるゆえんです。
 また、人の心を傷つけないことは善でしょう。しかし、時と場合によっては、たとえ一時的には傷ついても進言しなければならないこともあります。善の本質は、人を傷つけないこととは言えないのです。「~をすることは善」ということと、「善の本質は~だ」ということは異なるのです。

 ソクラテスは、「善とは何か」などについて、積極的に規定はしませんでした。しかし弟子のプラトンは、一歩先へと進んだのです。彼はそれを「イデア」と呼んだのです。
 「善とは何か」の答えは「善のイデア」だというのです。