魚谷さんの宗教講座 18
仏教編⑱
平安仏教と二人の天才僧侶

ナビゲーター:魚谷 俊輔(UPF-Japan事務総長)

 日本は中国ならびに朝鮮半島から仏教を受容しましたが、平安時代になると日本独自の仏教の展開が現れるようになります。

 平安時代の代表的な僧侶といえば、平安初期に現れた二人の天才僧侶として、最澄(さいちょう、767822)と空海(くうかい、774835)が有名です。
 最澄と空海は同時代の人物で、最澄の方が7歳ほど年上です。遣唐使と共に唐に渡った時も、二人は同じ船に乗っていたくらいに、近い関係でした。

 1984年に『空海』という映画が公開され、私も映画館で見た記憶がありますが、空海は北大路欣也が、最澄は加藤剛が演じていました。

▲1984年公開の映画『空海』で最澄を演じた加藤剛(左)と空海を演じた北大路欣也(右)

 彼らが同じ遣唐使船で唐に渡った時、最澄は空海よりも7歳年上であったために、既に空海よりも僧としての身分は上でした。そのため最澄は唐に短期間しか滞在することができず、当時求められていた密教(みっきょう)の経典や秘儀を完全に習得して日本に持ち帰る時間がなかったのです。

 一方で空海は無名の僧であったため、無期滞在ということで好きなだけ唐にいてよいということになりました。彼は留学僧として長期滞在し、本格的な密教の経典と秘儀を会得して帰国しました。

 当時、日本で求められていたのは、密教の秘伝を持って帰ることでした。最澄が中途半端なものを持って帰ってきたのに対して、空海は完全なものを持って帰ってきたので、ここで空海の株が上がってしまうわけです。

 そこで最澄は、年も身分も下である空海のもとに行って頭を下げて教えを乞い、密教の灌頂(かんじょう)を受けるわけでありますが、やがて二人は袂を分かっていくことになります。

 空海と最澄の交友が最終的に決別に終ったのは有名な話ですが、一般的に決別の原因とされるのは、空海のもとに預けた最澄のまな弟子・泰範(たいはん)が帰山を拒否したこと、最澄が密教経典である『理趣釈経』(りしゅしゃくきょう、『理趣経』とも)の貸し出しを空海に求めたにもかかわらず、これを空海が断ったことなどが挙げられています。

 細かい原因はさておき、年齢や身分は最澄が上であり、天台宗の立ち上げのために多忙であった彼を、年下で身分の低い空海が先生となって指導し、最澄は弟子として空海に従順に従わなければならなかったという状況は、意地やプライドを懸けた戦いとなり、相当に厳しかったのではないかと推察されます。

 二人の天才僧侶の別れ方は、決して幸福なものではありませんでした。しかし最澄が開いた宗派が天台宗となり、空海が開いた宗派が真言宗となり、平安初期における日本仏教の二つの大きな柱となっていきます。

(次回に続く)