愛の知恵袋 50
娘の成長

(APTF『真の家庭』160号[2012年2月]より)

関西心情教育研究所所長 林 信子

幼稚園の頃

 私には活発な男の子と、無口な女の子がいました。その頃、二人の祖母が孫に会いによく来てくれていて、朝の目覚めから娘の世話をしてくれていました。

 それで、小学校入学を前に私はお二人に宣言しました。「小学校では、自分で何でもしなきゃならないので、明日から一切手助けはなさらないで下さい」。

 さて、翌朝、起床時の30分前、誰か声をかけてくれると思ってる娘、遠くから見てる二人。何と15分前に娘は、ぱっと飛び起きると制服を着て髪をとき、あっという間に幼稚園に走った——祖母二人は「あの子チャーンとできるんだねえ」とあきれ顔と同時に少しガッカリ。

小学校から高校まで

 小学校では、成績も良い方ではなく宿題もしない、友人もよく似た子たちでした。5年生の時、「宝塚」にあこがれ「子供アテネ」に通い、声楽、日本舞踊、バレーに熱中。高校は女子校でしたが、なぜか委員長に選ばれて変身、真面目に勉強。

娘の変身

 ところが、女子短大に入ってまた変身。派手な子たちと遊び回り、卒業と同時にさらに外出も増えました。そして、ある冬の寒い夜、いったん帰宅してまた外出しようとしたので止めた——。でも、「すぐ帰るわ、公園までドライブ」と、娘は初めて見る娘と外に出た…。

 主人は海外出張中で息子は東京で勉強中。私一人…10時頃、救急車が「ピーポーピーポー」と走り過ぎました。20分ほどして、警察から電話があり「お母さんですね。娘さんが交通事故でケガをしています。病院へすぐ来て下さい」。私は、自分の車で駆けつけました。

 警察の話では「60キロのスピードで電柱にぶつかり、3度バウンドしています。運転していた子は気絶しましたが無傷です。娘さんは助手席で、そこが電柱に当たり、今治療中です。ガラスの破片が顔に散ったので、医師が取り出している最中です。しばらく待っていて下さい」。

 ガラスの破片? 何ということ! ブレーキもかけず電柱にぶつかる? 私が病院に着いてから4時間、50個ほどの破片を抜き取り、太めの糸で傷口を縫い終わった——。白い包帯に覆われた娘を見た…。痛いだろう、わが家に連れて帰って、娘は2階のベッドに行き、私は1階で横になりました。

 あの子の顔は傷だらけになるのか、今後の人生どうなる? 悲しくて泣きました。絶望的になり、声も大きく思い切り泣いた…。娘が降りてきて言った——。「ママ泣かないで! 私『お顔』で勝負するつもりだったけど、これからは『心』で勝負するよ」。けなげだけれど、それができるか、傷だらけの顔、どんな苦労の人生——。私は大声で泣けるだけ泣いた、涙が止まらなかった——。

 朝になり、私も強くなろうと決意。その日、講演依頼を受けていましたので、娘に「一人で病院に行ける?」と聞いた。娘は「大丈夫」と答えた。駅まで車で送りました。一緒に行ってやりたかった…。こうして、ガラスの破片との戦いが、その後3年続いた——。人間の体は不要な物は外へ出す仕組みになっています。奥に入った破片は次々表面に現れる。それを抜き取り皮膚をつなぐ。痛いだろう。怖いだろう。ぐるぐる巻きの包帯は恥ずかしかったろう。でも娘は強かった。

 1年、2年、どんどんきれいな皮膚に変わった。3年目、医者が言いました。「君の皮膚は上等だよ。すっかり元へ戻った。目の上と横は危険だから二重治療できなかったけど…。君ね、電車に乗ったら周りの人の顔を見てごらん。みんな、どこかに何かある。ホクロ、傷跡、あざ、しみ——。ともかく君の快復力は凄いよ、君もよく頑張ったよな」と。

 阪大の医師の皆さんは技術も高く真剣でした。出逢う患者さんも同じ境遇なので、励まし合えました。もし、「美容整形」に行くと個室で落ち込むそうです。

そして今

 3年余りで病院を離れた娘は、老人介護の仕事に就き、3年後に結婚しました。「顔でなく、心で勝負する」と誓った彼女は、現在困っている人を手助けするのを生き甲斐に生活し、「心みがき」を実行しているようです。

 私も今80歳の一人暮らし、娘が頼りです。