共産主義の新しいカタチ 101

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

「民主主義+社会主義」W革命を企図
パルミーロ・トリアッティ(下)①

クレムリンの闘争が第2ステージへ
 レーニン亡き後のクレムリンにおける権力闘争は、ソ連のみならず、書記長に納まったトリアッティのイタリア共産党(PCI)をはじめコミンテルン加盟諸国の共産党指導部にも甚大な影響を与えました。

 クレムリンではスターリンがトロツキーとジノヴィエフを追い落とすと今度は、ジノヴィエフ失脚後にコミンテルン(第3インター)議長に収まったソ連共産党きっての理論派ブハーリンとスターリンとの路線対立が表面化します。

 しかもコミンテルン加盟諸国の信任が篤(あつ)かったのはむしろブハーリンの方で、伊共産党としてもグラムシ逮捕もありトリアッティが書記長となり、盟友アンジェロ・タスカ(18921960)をコミンテルン本部に派遣しました。トリアッティは当初、個人的にも関係の深かったブハーリンを支持していました。PCI代表のタスカには、「あくまでVKP(ソ連共産党)内の権力・路線闘争であり、問題に深入りはしない」と指示しました。が、ブハーリンの敗北が決定的となり、トリアッティはタスカに対し、スターリンに恭順の意を表するように書面で指令を出すもタスカはブハーリンとの誼(よし)みからこの説得を拒否、ついに19292月、VKPでブハーリン派を糾弾する決議が採択され、ブハーリンは失脚。そしてコミンテルンの指令で翌年タスカはPCIを除名となりました。

▲パルミーロ・トリアッティ

スターリン主義にあらずんば共産主義者にあらず
 山田薫氏の前掲書では、トリアッティは後年、スターリン指導部の誤りを認めつつ、「なぜ抵抗しなかったのか」との問いに、「そんなことをしたら、私は殺されていただろう。歴史は、死ぬか、あるいは党を守るために生きるか、いずれがましであったかを問うだろう」と答えを引き、「当時はスターリン主義者でなければ、少なくともそれを装わなければ、共産主義者であることは不可能であり、ボルシェヴィキ的前衛とは異なる社会主義的発展を観念化することも不可能であった」と論評しています。

 このようにして独裁者の地位を固めたスターリンは1930年代から、ソ連国内はもとよりコミンテルン加盟国に至るまで徹底的な粛清を行いました。

 このように、「スターリンの腰巾着」と見られ、日和見主義者と見られたトリアッティですが、独自路線を打ち出すまでには、1953年のスターリンの死まで待たねばなりません。

 1935年の第7回コミンテルン大会でしたが、実はこれが最後のコミンテルン大会でした。同大会においてトリアッティは、「反ファシズム」の旗下に「人民戦線」路線を貫くというコミンテルンの方針を積極的に立案・提言化します。

 しかしあれほど大きな影響力を持ち、世界を席巻したコンミテルンは、第2次世界大戦終結前の1943年、突然解散したからです。

ソ連スパイの巣窟化ルーズベルト政権
 これは当面の敵ナチス・ドイツとその同盟国に対する戦いをスターリンは重視し、ともかく米国、なかんずくルーズベルト大統領との関係構築に細心の注意を払ったのでした。

 その中から終戦後の青写真を描き、その戦後体制でソ連が強力な権限を賦与されること(国連での拒否権を持つ常任理事国となることなど)を確約させた上で、共産主義イデオロギーによる国際組織「コミンテルン」の解散を認めたのです。

 ルーズベルト政権にはともかく政権中枢にソ連スパイが数多くいました。クレムリンばかりではなく、中国共産党と毛沢東にべったりの親中共産勢力が、戦後の日本をすら動かすことになるのです。

(続く)

「思想新聞」2026年3月15日号より

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