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神主義と頭翼思想 9
罪を見つめる
日本人は神主義に立つことができるか

ナビゲーター:稲森一郎

 新しく連載がスタートする同シリーズのオリジナル記事は、1995年10月から1996年10月までの期間、『氏族教会FAX-NEWS』に連載されたものです。
 文鮮明(ムン・ソンミョン)・韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁夫妻が提唱し、推進してこられた「統一運動」と、その運動理念である神主義、頭翼思想。その価値を再認識、再発見する機会としていただくために、稲森一郎氏の執筆による「神主義と頭翼思想~その理論と実践」をBlessed Lifeに再掲します(一部、編集部が加筆修正しました)。ぜひご活用ください。

 神主義に立って生きるということは、明確な神観がなければできません。神は唯一、絶対、永遠の存在であるので、神主義によって生まれる価値観も、相対的なものではなく、絶対的なものとなるのです。

相対的な善悪の概念
 例えば、善悪の概念を相対的なものとするか、絶対的なものとするかによって、生き方が全く違ってきます。
 善悪は時代的なものであり、環境的なものであると考える人は、判断基準を「時代」に置き、「環境」に置きますので、善悪が相対的なものになってしまいます。

 相対的な善悪概念しか持たない人が、正しく生きるということは、どういう姿なのでしょうか。
 その時代の人々の判断の目を気にし、その環境の中に生きている人々の目を気にしながら生きるということです。正しく生きるという判断の尺度を、その時代の、その環境の人々の一般良識に委ねて生きるということです。

 しかし、そのような生き方には、落とし穴があるということにお気付きでしょう。
 「昔はこういうことには厳しかったが、今は何をやっても自由な世の中になった」とか、「ここは日本とは違う。幸い自分のことを知っている人は誰もいないので、一つ大きく羽を伸ばすか」などという態度が、いとも簡単に生まれてしまうことになります。

 「その時代の」「その環境の」人々という限定された範囲が、いかに貧弱な価値観と貧弱な生き方しか生むことができないかが分かるわけです。

 このようにして、相対的な善悪概念によって生きる人々が、何とか罪を犯さないで生きるギリギリの歯止めが、現在、自分を取り囲んでいる人々の目と人々の判断にしかないとすれば、いつ、どこへ行っても正々堂々と胸を張って生きるということなどできるはずがありません。

日本的道徳律
 いわゆる、「恥の文化」と称される日本的文化の根底には、絶対的価値不在の「価値相対主義」が横たわっているのです。
 人さまの目が恥ずかしい、世間の目が恥ずかしいという強烈な意識が、日本的道徳律を奏でており、おかげで絶対神信仰を持たない民族にしては、社会秩序を高いレベルで維持しているという誠に不可思議な日本社会が形成されているのです。

 しかしその半面、仲間意識の強い人間集団がお互いに監視し合っているような一つの息苦しさが生まれるのも事実であり、真に自由で、真に平等で、真に愛し合って、伸び伸びと生きる家庭環境なり、職場環境なり、社会環境がないような気がすると感じる人々も多いはずです。

「相対」は原罪と堕落性本性から免れない
 いずれにしても、「絶対」を持たない人々は、その時の私の周りにいる人々がどう見るかが全てとなりますから、非常に揺れ動きやすい「相対」の世界で生きていくことになります。

 ここで検討すべきは、結局、人間の目というけれども、人間の目はどのくらい信じられるのかということになります。

 残念ながら、統一原理が解明しているとおり、人間は堕落人間であり、原罪と堕落性本性から完全に免れることができている人はいないという厳しい現実こそが、日本のみならず、全世界の現実であるということです。

 価値相対主義は人間主義に陥るということ、そしてその人間たちは罪悪の中にうごめいているという決定的な現実を認識しなければなりません。

神主義の立脚点は神の「絶対」
 昔も今も、アメリカでもロシアでも、いつでも、どこでも不変に通用する、動かない「絶対」の世界とは何か、「絶対」の善、「絶対」の悪とは何か。これを明確にしなければ、私たちの真の生き方も生まれませんし、人類が一つになって世界の永遠の平和を築くこともできません。

 神の絶対基準が明らかになった時、それから外れる基準が罪となることは明らかです。
 神主義の立脚点は、神の「絶対」にあるのです。