コラム・週刊Blessed Life 31
心を安らかにして平和をつくる

新海 一朗(コラムニスト)

 人類社会の不安と恐怖と混乱は、その主たる原因を、人間相互の不信とねたみと憎しみに帰することができます。

 政治や経済や軍事などの外的要因がいつも論じられることになるのですが、根本を突き詰めていけば、心の中に不信や嫉妬や憎悪があることから、人間社会に対立と葛藤がもたらされるという心理的要因があることを認めざるを得ません。

 「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(箴言 第4章23節)という旧約聖書の言葉とは反対の状態、すなわち、ざわつく心を制御できず、絶えず不信の思いやねたみの心や憎悪の心に振り回されて、本当の自分の在り方、すなわち、「心安らかにして平和あり」という状態を失ってしまうのです。
 「自分の心を守る」ことができずに、「命の泉」(生命の躍動)も枯れ果てて、孤独で疲れ果てた現代人の姿が至る所に広がっているということです。

 一言で言えば、人間関係におけるあらゆるつまづき、不平不満といったものにより、本来の自己の在り方が分からなくなり、生命の躍動感(生きていることの喜び)も失われるということになります。

 こういう疲労感と喪失感の多い現代社会において、人はいかに生きるべきかを考えると、やはり、「愛」という言葉の意味がもつ深さの中に、最終的な答えを求めていかざるを得ません。

 「憎しみは争いを起こし、愛はすべてのとがをおおう」(箴言 第10章12節)という聖書の言葉は、非常に意味深いものです。「とが」(罪)の中に生きる人間たちが、お互いに裁き合っても、答えになりません。疲れるだけです。お互いに罪人なのですから。

 究極的な言い方をすれば、「愛はすべてのとがをおおう」という言葉は、神の愛が、イエスの愛が、そして再臨主(真の父母)の愛が、人類の「とが」を帳消しにしてくれるという意味に捉えていいでしょう。

 私たちのとがを覆ってくださった途轍(とてつ)もない愛の故に、「私の中にも愛が芽生えました」ということになるのです。この愛を獲得した心の世界に平和が宿り、平和が宿った故に、心を安らかにすることができるというわけです。